子供や家族連れを見る度に
自分が犯した罪の重さや深さを
知っていきました。
それは月日が経てば薄く軽くなることではなく
乗り越えようと考えていた頃の自分を
恥ずかしいと感じる程に
重なっていきました。

そして罪の重さや深さを知る毎に
亡くした子供への思いが浮かぶ度に
相反する罪悪感と喪失感が絡み合って
どうしようもなくなりました。

子供と歩く人たちを罪悪感と羨望が
入り交じった思いで眺める自分を
罪を犯した自分が
「自分が何をしたか忘れたのか」と咎める。

醜すぎる蔑みの感情を捨て去るために
「子供は好きじゃない」と壁を立てました。

会いたくて堪らない子供が
突然流れて居なくなった
耐え難さからも逃げたかった。

なりすまして暮らしてるワタシに
強い感情は奥の方にしまって
「子供は嫌いだ」と刷り込んで
これ以上恋しくならないように
距離を置いた。

朝、仏壇に手を合わせる時も
「おはよう。行っています。」
とだけ心で話しかけて。
それ以上の思いが溢れてこないように
足早に離れたりして。
自分を守るためにそんなことをするワタシは
薄情な母親だなと
「子供に恥ずかしくないように生きる」
とあの人云った言葉を時々思い出した。
恥ずかしくないように生きることも出来ず
意味も分からないワタシは
母親になれなくて当然かなと思った。

ワタシはこの先も
子供達が居る場所には行けないけど。
子供達のエコー写真と一緒に燃やして欲しいと書き残している。
最後の我儘で最後の願い。
残してはいかない。
薄情な母親の望みを
子供達は許してくれるかな。
なんて
子供達から見える場所に
自分が居ると考える無責任で
烏滸がましい祈り。