自閉症スペクトラムを持つ成人女性のひまわりと申します。自閉症スペクトラムといっても様々なのですが、このブログでは私の自閉症スペクトラムという意味で、「私のスペクちゃん。」と名付けております。よろしくお願いします。

 

さて、今回のテーマは「お笑い」。とは言っても、私ひまわりはお笑いに対する考察が何一つできないし、ネタを書くことなんて全くできないので「私がお笑いを面白いなと笑えるようになった時」について書いていきたいと思います。…と、その前に、今年は超久しぶりに『爆笑レッドカーペット』が放送されていましたよね!!テレビでこれを見たとき、めちゃくちゃ喜びました!!「テレビよ、告知してくれて本当にありがとう!!」皆さんは、見ていたでしょうか??どうでしょうか??

 

話はちょっと逸れましたので、本題に移ります。私がお笑いを面白いなと笑えるようになった時は、人との会話が理解できるようになった時――つまり、大人に近づいた年齢のころです。お笑い番組は小学校の頃から好きで見ていたのですが、当時はリズムネタやオーバーなリアクション芸とかが面白いと感じていました。これは、「会話の流れ」や「話している言葉の意味」が分からなくても、「何かこの言葉の響き、面白い!」とか「いきなり変顔とか、突然変な踊りし出すの面白い!」という感じで楽しむことができたからでした。これに似た感覚があるとすれば、「何一つ歌詞の意味すらわからない洋楽だけど、何だかリズムや曲調で楽しくなってノリノリになる感じ」ですかね…要は、フィーリング。言語の壁、コミュニケーションの壁を忘れちゃうくらい面白かったのです。

 

ここで、「言語の壁」・「コミュニケーションの壁」と出てきましたが、なぜその壁が現れるのかについて自分なりに書いていきたいと思います。(自閉症スペクトラムといっても、様々な困難があるので世の中の自閉症スペクトラムの人たちが私と同じ困難ではないことを頭の片隅に入れていただきたいです)

 

1つ目、「言語の壁」は語彙力。つまり、どれだけの言葉やその意味が分かるのかということです。例えば、外国語を全く知らないのに母国語の字幕なし(もしくは母国語での吹き替えをしない)で外国の映画を見ると、登場人物たちが何について話しているのかが全然分からないと思います。つまり、たとえ音声は聞こえても「言葉」として聞こえないから、内容を理解することが不可能になってしまうのです。

 

2つ目、「コミュニケーションの壁」は他人との会話の流れ。一見、「言語の壁」さえ乗り越えられたら「コミュニケーションの壁」はないのではないかと考える方もいらっしゃるかもしれません。でも、これ、とっても大きな落とし穴だと思いませんか?

(例の会話。これは、あくまでもイメージとなります。)

Aさん「よ~し、今日は僕たちの大好物のハンバーグを作るぞ!まずは、玉ねぎを切ろう!!あれ、玉ねぎ…どこにしまったっけな??Bさん、玉ねぎを冷蔵庫から探してちょうだい。」

Bさん「え??何で、玉ねぎを探すの??」

Aさん「ハンバーグには玉ねぎが欠かせないだろ??だから、探してほしいんだよ!」

Bさん「ちょっと待って、ハンバーグの話をしているんだよね??何で、玉ねぎが出てくるの??意味が分からない。」

Aさん「だーかーら!!ハンバーグを作るために、玉ねぎを探してほしいの!!玉ねぎのないハンバーグなんてありえないだろ!!」

Bさん「いや、ハンバーグの話をしているのに、どうして玉ねぎを探さないといけないの…??あれ、今、何の話をしているんだっけ…分からなくなっちゃった…」

 

どうでしょう。2人とも日本語で話しているはずなのに、どうも会話が成り立っていないですよね。それは、「気持ち」が関係していると思いませんか?

Aさんの気持ちとしては、“2人の大好物であるハンバーグを作って、2人で美味しく食べたい。そのためには、まず玉ねぎを切ってひき肉などを用意してハンバーグの種を作らないといけない。でも、その肝心な玉ねぎをどこにしまったか忘れてしまった。Bさんに探してもらおう。”ということだと思います。

しかし、Bさんには「Aさんの気持ち」が伝わっていない。むしろ、「Aさんの話」を聞いてますます混乱をしてしまう。

なぜ、混乱してしまうのか。Bさんは、なぜAさんが、「ハンバーグを作りたいのか」・「玉ねぎを探してほしい」と伝えたのかが分からない――つまり、相手が伝えたその気持ち・背景をリアルタイムでくみ取ることができないからだと思います。

 

では、どうしてそのような現象が起きるのか??

これはあくまでも私のスペクちゃんの場合となりますが、

*人の気持ちの概念が、自然に分からない:喜怒哀楽など…の様々な感情の概念がイメージしにくい(または、「気持ち」とコミュニケーションを結び付けて考えるのが難しい。)転んでけがをして泣いている子供を見て、なぜ泣いているかが想像(推測)をすることができない。特に、自分が体験したことがないことに対しての想像がとても難しく、教えてもらわないと分からない場合も多々ある。(教わることで、人付き合いを少しずつ学べることもある)そこに、悪意はなくて、純粋に分からないという感覚が近いかもしれません。

*自分の気持ちを、うまく言語化できない:このブログを書いているときに思い出したのですが、小学生のころに家族でプールに行く話をしていて「私も行きたいな」と思っていたのに「私もプールに行きたい」という言葉が言えなくて私一人だけお留守番していた…ということがあって。

これは、自分の気持ちを言語化する方法が分からなかった時期でもあって、言葉は話せなかったけど悲しい思いをしたなあ。ああ、そういえば、プールから帰ってきた親に「自分の気持ちに、正解ってないんだよ。」って話をしてくれたことも思い出した。「自分の気持ちで、『こうしたい』っていうのがあったらそれを素直に言ったらいいんだよ。」ってこの頃は、よく言ってくれたよね。

多分、あの時の私は自分の気持ちをうまく言語化できなかったの、もしかしたら「学校の勉強」みたいに「正解の答え方」をしなきゃって思っていたのかな。自分の気持ちは、自分にしか分からないのに。「自分の気持ちに〇も×もないんだよ」って、今、ふと思ったんだけど、親は私が自分の気持ちに素直に向き合ってほしかったんだろうか。(まずは、自分の気持ちを伝えてみてって言ってくれたことあったし。)「私は、プールに行きたいんだよね。」ああ、それでいいってずっと言ってくれたのかな。

自分の気持ちをうまく言語化できないと、「自分はこう感じているのに伝わらない(伝えることのできない)もどかしさ」とそのイライラや悲しみが爆発してしまうんだよなあ。どうして「みんなは話せて、私は話せないのか」という複雑な思いがうまく自分の気持ちを話せない私には辛かった……

 

*人の話している内容を聞くのに精いっぱい:頑張って相手の話している言葉を覚えようとして頭の中で整理するのに精いっぱいで、相手の表情や気持ちに気づくことが困難。そもそも、会話をする環境によって相手が何て話しているかが聞き取れなくなってしまうこともある。(私の場合は、大勢の人が集まるにぎやかな場所で会話をされると、相手がどう話しているのかがうまく聞き取れないこともあります。また、聴覚過敏が悪化して会話ができなくなることもあります。)ということが頭の中で起きるのだと思います。でも、頭の中は誰も覗けやしないから、なかなか分かりにくくて誤解をされることもありますね。

 

この2つの壁は今も私にはありますが、周りの人たちから会話術や処世術をたくさん教わることで幼少期と比べてその壁が小さく感じられるようになりました。2つの壁が小さくなったことで、会話の流れやテンポを味わう要素の強い「漫才」・「コント」の面白さを感じられるようになって、お笑いをより面白く感じられるようになりました。今では、好きなお笑い芸人さんのYouTubeチャンネルを探して動画を見るのがとっても楽しくなりました!

 

2つの壁にぶつかって落ち込むこともあるけど、それが自閉症スペクトラムであるのだと進んでいけたらいいな~