私の方言での表記となっていましたが、品格に欠けるので、ここからは標準語表記とします。
私が、述べている某大物歌手のブログに於ける「検閲」とは、管理者が言論や表現に対して一方的に定めた「御法度」を監視することです。
それは、あたかも戦前、戦中の我が国の最高権力者を「現人神(あらひとがみ)」、某国の最高権力者を「将軍様」と称して「神格化」し、国民に崇拝と忠誠を強いる為の当局の言論及び思想統制による「国体維持」の政策に酷似しています。
したがって、一つの議題(その歌手の評価等)で賛否両論を議論する自由闊達な討論など生まれるべくもありません。
私が、「民主主義に非ず」と発言した理由がそこにあります。
具体的に説明しますと、「信者の信者による信者の為のブログ」においては、“当局の統制下”により信者さん達は全員が「イエスマン」です。
そこに、賛否両論の論争など起こりません。最初から結論ありきです。即ち、「異議なし。〇〇〇〇〇さん万歳!」に終始します。
下手に反論しようもなら、「反動分子」としての「粛清」が待っています。
逆に、ファン達の討論には自由な賛否両論の論争があり、「昔は良かったけれど、現在(いま)は駄目」というシビアな結論に達することも有り得ます。
これこそが「民主主義」です。
恋愛に例えると「信者」は、「百年の恋」を成就する人。
「ファン」は、何かをきっかけに「百年の恋」に終止符を打つ人。と言う理論が成り立ちます。
結論として、某大物歌手の今日までの精進で構築された「魅せる芸」(私はそれが好きなのです)により、「ファン」が「信者」化して、その人を「生き仏(カリスマ)」化するのも道理であり、そこに自ずと「タブー(御法度)」が生じます。したがって、「生き仏様」と“ご本尊が鎮座おわす世界”を揶揄するコメント(今、私が述べていることが正にそれでしょう=異教徒の干渉)に“検閲という監視の目”を光らせるのも、やむを得ないことではあります。
が、違法な投稿には「法の裁き」が、あることを忘れてはいけません。(完)
