街・駅・電車の、
目に見えない
‘境界’・‘結界’・‘限界’ とは


これは、僕が街ナカや駅ナカを何度も歩いて、強く感じたことです。

特に2ヶ月前、長く住んでいた北海道を離れ、首都圏に引っ越してから、電車や駅を利用する頻度が増え、何とかしなきゃという危機感と使命感が、日に日に募ってきました。

普段になく硬い文体、そして長い文章となりましたが、皆さんに読んでいただけると幸いです。


目に見えない ‘境界’
目に見えない ‘境界’ とは、隣り合った異なる企業を分かち合う、地面の上での隣地境界線。
建築基準法をはじめ、法的には重要な概念で、実際には地面に線が描かれていないものの、関係者が善かれと思って境界を跨ぎ、色々と世話を焼いたら「越権行為」だと批判されかねません。
ただし、道を跨いで歩く立場の我々(利用客)とすれば、バリアフリー的には段差の有無こそ重要ですが、何処と何処の境目なのか、あるいは何処の企業に属する領域かは、どうでも良いことなんです。

目に見えない ‘結界’
目に見えない ‘結界’ とは、同じ傘下の企業ながら、部署の違いで築かれてしまった ‘境界‘ 同然の壁。
役所のように、高齢者福祉関連か住民税関連かで、同じ自治体なのに縦割り的に、市民を振り回すようなものを、ここでは ‘結界’ と呼びます。
駅周辺を例にするなら、親会社が同じでも、子会社的に百貨店と駅(鉄道)で異なると、それぞれが隣り合っているとしても、‘結界’ を感じさせ得るケースだと言えます。
我々にすれば、先に述べた ‘境界’ と同じく、どうでも良いことです。

目に見えない ‘限界’
バリアフリーに関係する社会貢献に、組織や会社として、あるいは組織人や会社員の一人として取り組むもうとすると、組織や会社の柵(しがらみ)が強く、あっさりと「目に見えない ‘限界’」に達してしまいます。
一人の人間、一個人としての思い遣りで立ち振る舞おうとしても、組織や会社の看板が障壁になりかねません。
プライベートな場面であれば、良心的に立ち振る舞うことは不可能ではありませんが、諸外国ほど習慣づいておらず、残念ながら「右倣いで我関せず」が日本の現状だと言えます。


(チコちゃん「が」叱られる?)


さて我々、今の日本に住む人たちが、‘境界’・‘結界’・‘限界’  の現状をいったん受け入れたとして、これからの時代を生きる子どもたちを思い、次にすべきアクションとは、果たして何でしょう?

絶対的な正解はなく、納得解は複数あるものと想定されますが、思考停止に陥ることなく、自分の肌で感じ続けることと、自分の頭で考え続けることが、少なくても我々に求められていると、断言できるでしょう。