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架空裁判官ブログ

主文 
本件架空人をブログに書する。

判決理由
法の勉学にも最適、ブログに記して臨むほかはない。

《烏桓の特徴》

元は東胡。東胡が匈奴に滅ぼされると分裂し、鮮卑と烏桓に別れた。

有力説にはツングースの系譜とされる。

烏桓族の部族長は大人(たいじん)と呼ばれたが、一部の有力者は後漢の袁紹より単于(ぜんう)の称号を授かった。

後漢の建武25年(49年)、烏丸の大人郝旦(かくたん)ら9000余人が部下を引き連れて漢の朝廷にやってきた。

その主だった指揮者が王や侯に封ぜられ、その数は80人以上にものぼった。彼らを長城の内側に居住させ、

遼東属国、遼西、右北平、漁陽、広陽、上谷、代郡、雁門、太原、朔方諸郡に分けて住まわせ、同じ烏丸族の者たちを内地に移るよう招き寄せた。

彼らに衣食を給し、護烏丸校尉の官を置いてその統治と保護にあたらせた。こうした施策の結果、烏丸は漢のために塞外の偵察と警備の任にあたり、匈奴や鮮卑に攻撃を加えるようになった。
永平年間になって、漁陽烏丸の大人の欽志賁(きんしほん)が部族を糾合して漢の命令を聞かなくなり、鮮卑も再び漢へ攻撃を始めた。遼東太守の祭肜(さいゆう)は、懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、その混乱に乗じて一味を打ち破った。
安帝の時代になると、漁陽,右北平,雁門の烏丸の率衆王無何(むか)たちは、また鮮卑や匈奴と連合して、代郡,上谷,涿郡,五原で略奪を働いた。そこで大司農の何熙(かき)に車騎将軍を兼任させ、近衛兵をその旗下につけ、国境地帯の7つの郡と黎陽営の兵士を動員して、合わせて2万の軍で攻撃をかけさせた。匈奴は降服し、鮮卑と烏丸はそれぞれ長城の外へ引き揚げていった。これ以後、烏丸はまただんだんと漢に接近してきたので、彼らの大人戎末廆(じゅうまつかい)を都尉の官に就けた。順帝の時代には、戎末廆は、主だった配下の咄帰(とつき)や去延らを率い、護烏丸校尉の耿曄(こうよう)に従って長城を出て、鮮卑を攻めて手柄を立てた。帰還するとそれぞれ率衆王の位を与えられ、絹を賜った。

 

烏桓は騎射(騎乗したまま矢を放つこと)に巧みで、水や牧草を追って遊牧を行い、定住地はない。穹廬(きゅうろ:ゲル)を家とし、入口はみな太陽の方向(東)に向ける。

鳥獣を狩りし、肉を食べ酪(らく:ヨーグルトの類)を飲み、獣の毛で着物を作る。

若者が貴ばれ老人は賤しめられ、その性格は乱暴で、腹を立てれば父や兄をも殺すが、母親には決して危害を加えない。なぜなら、母親には母方の一族がいるが、父や兄は自分と同族で、彼らを殺しても報復をする者がいないからである。

勇敢壮健な者で互いの訴えや争いごとを裁いてゆける者を選んで大人(たいじん:部族長)とするのが通例である。

邑落ごとに下級の統率者がいるが、世襲ではない。数百から数千の落(らく:集落の最少単位で、約2~3戸20数人ほど)が集まって一つの部族を作っている。

大人が人を集める時には、木に刻み目を入れてしるしとし、邑落(ゆうらく:落が20数戸集まり、人口約百十数人ほど)の間を回す。

文字はないが、部族民は決して大人の召集を間違えることはない。

定まった姓氏はなく、大人や勇者の名を姓とする。

大人以下、それぞれに牧畜を仕事とし、徭役(ようえき:土木工事)にかり出されることはない。

 

《三国時代の人物》

◇丘力居(きゅうりききょ) - 生没年不詳

登場 後漢書烏桓伝

遼西烏桓の大人。5000余りの部落を配下に置いていた。

168年には、遼西郡を支配する烏桓族の大人(酋長)となり、5000を超える集落を支配下に置いていたと紹介されている。また上谷には難楼があり、9000を超える集落を支配下においてそれぞれが王を称していたといわれる。後漢の勢力が衰退すると、この勢力を背景にして幽州や青州などに何度も侵攻した。
187年、張純と張挙の反乱に乗じて手を結び、さらに後漢の領土を侵食しようとした。
しかし、劉虞が幽州刺史として赴任すると、劉虞を慕う丘力居らは通訳の使者を出して、恭順の意を示そうとした。
このとき、劉虞を妬む公孫瓚に使者を殺害されるなどして交渉を妨害されたが、引き続き丘力居は劉虞に恭順した。烏桓の庇護を受けられなくなった張純は逃亡し、殺害されている。
初平年間に没した。子は幼少だったため、従子の蹋頓がその後を継いだ。

 

◇蹋頓/蹹頓(とうとん) - ?~207年

登場 三国志(正史)烏丸鮮卑東夷伝、三国志演義

遼西烏桓の大人であり、単于。丘力居は従父。

丘力居の死後、その子の楼班が幼かったため、彼がその後を継いで部族を統率し、上谷烏桓の難楼・遼東属国烏桓の蘇僕延・右北平烏桓の烏延を、自身の配下に置いた。
蹋頓は武勇に優れた人物で、命令がよく行き届いた。

袁紹と公孫瓚の抗争がまだ続いていた時、蹋頓は袁紹と早くから誼を通じ、自らの精鋭騎兵部隊を援軍として送り込んで協力した。袁紹は公孫瓚を破ると朝廷の命令を偽造し、蹋頓らに印綬を与えた上で各々を単于に任命した。
楼班が成長すると、蘇僕延は楼班を奉じて単于に擁立し、蹋頓を王とした。
袁煕・袁尚兄弟が逃れて来るとそれを匿ったため、206年に曹操の攻撃を受けた(白狼山の戦い)。烏桓の軍勢は、柳城の100里手前にある白狼山で張遼を先鋒とした曹操軍と遭遇し、袁尚らと共に勇敢に戦ったが、曹操の軍略の前に敗れ大敗した。蹋頓は虎豹騎を率いていた曹純に捕縛され斬られた。
楼班・速附丸・烏延・蘇僕延は袁尚らとともに遼東に逃げ込んだが、太守の公孫康により袁熙・袁尚兄弟らとともに殺害されている。これにより三郡の烏桓は破れ、残った代郡の烏桓も降伏した。その後、烏桓は曹操に服属し、騎兵を提供するなど有力な兵力供給源となった。
「三国志演義」では袁紹と友好関係にあった事から、袁煕・袁尚らが曹操に敗れ頼って来ると、袁尚に協力して曹操と戦う。最後は張遼に敗れて斬り殺される事になっている。

 

◇楼班(ろうはん) - ?~207年

丘力居の子。成長してから単于となる。

父が死去した時にはまだ幼く、単于の地位は従兄の蹋頓が継承した。蹋頓が曹操に敗れると、袁煕・袁尚とともに遼東の公孫康を頼ったが、公孫康に斬首されて首級を曹操の元へ送られた。

「三国志演義」には登場しない。

 

◇蘇僕延(そぼくえん) /速僕丸/速附丸(そくふがん) - ?~207年

登場 後漢書烏丸伝では蘇僕延、武帝紀では速僕丸三国志(正史)烏丸伝では速附丸

峭王を自称

遼東属国烏丸の大人峭王を称す。遼東に1000余りの部落を配下に置いていた。《烏丸伝・後漢書同伝》

『三国志』烏丸伝では遼東属国の大人とするが、『後漢書』では遼東の大人とある。

どちらが正しいのか分からないが、袁紹の文書に「遼東属国の率衆王頒下」という者が見えており《烏丸伝》、一郡一王であったとも考えられる。

 

中平3年(186)、車騎将軍張温は辺章らを討伐するにあたり、幽州から烏丸突騎三千人を動員したが、烏丸兵はみな途中で離叛して故郷に逃げ帰った。前の中山国の相張純は、密かに前の泰山太守張挙に「いま烏丸が離叛して涼州も蜂起したが、朝廷は制圧することができない。洛陽で双頭の子供が産まれたというが、それは天下にもう一人の君主が現れる予兆だ。二人で烏丸の軍勢を率いて挙兵すれば、偉大なる事業を成し遂げることができよう」と告げた。翌四年、張純らは烏丸の大人たちと手を結んで薊の城下に攻め込み、護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守楊終らを殺した。軍勢は十万人以上に膨れあがり、肥如に屯した《後漢書劉虞伝》。

 

張挙は天子、張純は弥天将軍を称し、蘇僕延に歩騎五万人を率いて青州・冀州に攻め込ませた。蘇僕延は清河・平原を陥落させて官吏・人民を殺害した《後漢書劉虞伝》。

 

翌5年、劉虞が幽州牧として薊城に着任し、駐留軍を解散させて恩愛信義の施しを心掛けた。劉虞は蘇僕延らのもとに使者を出し、朝廷の恩寵は異民族にも及んでいることを説明し、正道に復帰する手立てを整えてやったので《後漢書劉虞伝》、蘇僕延は劉虞の恩徳に心服した《後漢書公孫瓚伝》。張挙・張純は逃亡し、食客に殺された《後漢書劉虞伝》。

 

初平年間(190〜194)、遼西烏丸の丘力居が死んで従子の蹋頓がその後を継ぐと、三郡の烏丸はみな彼の命令に従うようになった《烏丸伝・後漢書同伝》。

袁紹と公孫瓚が紛争を始めると、蹋頓は袁紹のもとに使者を送って連合し、袁紹の援軍として公孫瓚を攻撃、これを打ち破った。袁紹は偽の詔勅を発行して蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の印綬を授けてやった《烏丸伝・後漢書同伝》。

のちに丘力居の子楼班が成長すると、蘇僕延・難楼は配下の軍勢を率いて楼班を単于に推し立て、蹋頓を王に降格した《烏丸伝・後漢書同伝》。

初平4年(193)10月、劉虞が公孫瓚に殺害されると、劉虞の従事鮮于輔は閻柔を烏桓司馬に擁立し、漢族・胡族を問わず数万人をかき集めた。蘇僕延は烏桓族および鮮卑族の騎兵七千人を率い、鮮于輔とともに劉虞の子劉和を迎え入れ、袁紹の将麴義と合流して公孫瓚を攻撃、興平2年(195)、鮑丘にて公孫瓚を打ち破った《後漢書公孫瓚伝》。

 

袁紹の死後、曹操がその子袁譚を討伐したとき、柳城の烏丸が騎兵を出して袁譚を支援しようとした。曹操はかつて烏丸を仕切っていたことのある牽招を使者として柳城に派遣した。牽招が到着したとき、蘇僕延は柳城にいて武装を固め、五千騎を率いて袁譚支援のために出陣するところだった。また単于の印綬を贈るため遼東太守公孫康の使者韓忠が来ており、蘇僕延は酋長どもを集めて酒宴を開いていた《牽招伝》。

 

蘇僕延は牽招に告げた。「むかし袁公(袁紹)は天子の勅命によって我を単于に取り立てたと言っていたが、いま曹公(曹操)がまた天子に進言して我を本当の単于に取り立ててやろうと言う。遼東もまた印綬を持ってきた。だれが正統なのか?」牽招は「袁公は詔勅によって任命する権限を持っておりましたが、天子のご命令により曹公が交代いたしました。天子に進言して本当の単于に取り立てるというのは真実です。遼東ごとき卑しき郡がどうして任命を行えましょうか」と答えた《牽招伝》。

 

韓忠が「わが遼東は軍勢百万、扶余・穢貊が味方に付いている。当今の情勢をみれば強さにおいて右に並ぶ者はない。曹操だけがどうして正統だと言えるのか?」と言うので、牽招は韓忠を怒鳴りつけ、「曹公は天子を奉戴して叛逆者を討伐しておるのだ。お前らは険阻遠方を頼みにして王命に違背しているのは誅殺に相当する罪だ。それでも慢心して大人を中傷するつもりか!」と言い、すぐさま韓忠を捕まえて斬首しようとした《牽招伝》。

 

左右の者たちは顔色を失い、蘇僕延は驚いて牽招にしがみつき、韓忠を助けてやってくれと頼んだ。牽招は席に戻り、蘇僕延たちに利害得失を説明してやると、みな座席からすべり降りて平伏した。蘇僕延は韓忠を遼東へ帰し、騎兵たちの武装を解かせた《牽招伝》。

 

曹操が袁譚を斬り、その弟袁尚を打ち破ると、袁尚は蹋頓のもとに身を寄せた。建安12年(207)、曹操は直々に出馬して柳城で蹋頓と戦い、これを斬った《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。蘇僕延・楼班・烏延らは部族の者たちを見捨て、袁尚に付き従って遼東に逃走したが、遼東太守公孫康は彼らの首を斬って曹操のもとへ送り届けた《武帝紀・烏丸伝》。

 

◇難楼(なんろう)/ 那楼(なろう)- 生没年不詳

登場 武帝紀

難楼では上谷烏丸の大人。

那楼では上郡烏丸の大人

この違いについて、識者いわく

幷州上郡は黄河以西にあり、易水から離れすぎている。「上郡」は「上谷」の誤りで、那楼は難楼と同一人物なのではないか。

ここではおそらく同一人物として扱うものとする

9000余りの部落を配下に置いていた。袁紹より印綬を与えられ、単于となる。

建安12年(207年)、袁尚・蘇僕延らが遼東太守公孫康に斬られ、11月、曹操が易水に着陣すると、那楼は代郡烏丸の単于である普富盧とともに配下の名王たちを連れて帰服した《武帝紀》。

 

◇普富盧(ふふろう) - 生没年不詳

登場 武帝紀

代郡烏丸の大人。単于となる。

建安12年(207年)、袁尚・蘇僕延らが遼東太守公孫康に斬られ、11月、曹操が易水に着陣すると、普富盧は上郡烏丸の行単于那楼とともに配下の名王たちを連れて帰服した《武帝紀》。

同21年5月、曹操が爵位を魏王に進められると、普富盧はまた配下の侯王たちを連れて入朝した《武帝紀》。

 

◇烏延(うえん) - ?~207年

汗魯王を自称

登場 烏桓伝、後漢書烏丸伝、武帝紀

右北平烏桓の大人であり単于、のち汗魯王を称す《後漢書烏丸伝》。

霊帝の御代の初め、烏延は右北平に800余りの部落を抱え、「汗魯王」を自称した。勇敢で計算高かったという《烏丸伝・後漢書同伝》。

袁紹による単于任命書には「右北平の率衆王汗盧」とある《烏丸伝》。

初平年間(190~194)、遼西烏丸の丘力居が死んで従子の蹋頓がその後を継ぐと、遼東・遼西・右北平三郡の烏丸はみな彼の命令に従うようになった《烏丸伝・後漢書同伝》。

袁紹と公孫瓚が紛争を始めると、蹋頓は袁紹のもとに使者を送って連合し、袁紹の援軍として公孫瓚を攻撃、これを打ち破った。袁紹は偽の詔勅を発行して蹋頓・難楼・蘇僕延・烏延らに単于の印綬を授けてやった《烏丸伝・後漢書同伝》。

袁紹の死後、その子袁尚は曹操に敗れて蹋頓のもとに身を寄せた。建安12年(207年)、曹操は直々に出馬して柳城で蹋頓と戦い、これを斬った《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。

烏延・蘇僕延・楼班らは部族の者たちを見捨て、袁尚に付き従って遼東に逃走したが、遼東太守公孫康は彼らの首を斬って曹操のもとへ送り届けた《武帝紀・烏丸伝・後漢書同伝》。
 

◇能臣抵之(のうしんていし)/能臣氐(のうしんてい) - ?~207年

登場 三国志(正史)

 

◇無臣氐(能臣氐)(建安年間)…218年、軻比能と手を組み、反乱を起こす。
◇修武盧(普富盧と同一人物?)…軻比能の配下


◇寇婁敦(こうろうとん) - 生没年不詳

登場 三国志(正史)

右北平烏丸の大人、単于、阿羅槃の兄。

魏時代となり、毌丘倹の軍が来ると聞いて、配下の5000余人を引き連れて降伏した。

寇婁敦は弟の阿羅槃(あらばん)を遣わし、宮廷に伺候して朝貢物を献上させた。

朝廷は、寇婁敦の配下の主だった指揮者30余人を王に封じ、輿や馬などをそれぞれの位に応じて下賜した。

 

◇阿羅槃(あらばん) - 生没年不詳

登場 三国志(正史)

右北平烏丸の大人、単于、寇婁敦の弟。

青龍年間に魏帝は遼東征討を毋丘倹に命じた。

毋丘倹が来ると聞いて、237年秋に寇婁敦が降伏すると、寇婁敦は朝貢の使者として阿羅槃を魏王宮へ派遣した。

 

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このBLOGは日々更新して書き換えながら補強していきます

主に三國志を楽しむために活用できればいいと思い作りました。

◇史記、漢書、後漢書、晋書、三国志演義などを読む上での補足

◇光栄シリーズの三國志で登録武将を埋めるもよし

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三国時代・・広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指し、最狭義では三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。

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三國志の書物

◇三国志(繁:三國志)陳寿著(西晋時代) - 日本では「正史」と呼ぶのが一般的

◇三国志演義(繁:三國演義、簡:三国演义)一説には羅貫中(明時代)

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