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心を開くまで辛抱強く寛容する姿勢を
忍辱(にんにく)の姿勢といいますが、
仏教において、「忍辱の姿勢」ということが、よく言われます。

これが、どうも悪用されているようです。
あるいは、何もしないことの
隠れ蓑にしているところが少しあります。
善悪を言えないような宗教というのは、
宗教しての使命を果たしていないのです。

間違っているものについては、
「間違っている」と教えなければ、人は救えません。
「悪でもよいのです」という姿勢で、どうしますか。

正しいものが、「悪い」「間違っている」などと言われても、
「いや、そうした考え方もあるでしょう」
「それもひとつの考えです」などと
いうよなことで済ませていて、
世の中でよくなるはずがあるはずがありません。

私たちは、あくまでも思想戦です。
言葉で、思想で、戦うのです。
「言葉で戦い、行動でもって教化する」という戦いですから、
非常に平和的ではありますが、
「正は正、邪は邪」として、やはり、
言うべきことはきちっというという戦いです。

これはやらなくてはなりません。
仏教が忍辱を説いているのは、
「悪魔を許容せよ」
「悪に屈従せよ」などということを
教えているのではないはずです。

『仏陀の証明』より

#姿勢 #戦い #思想


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エゴイズムの起源

「人間は一回限りの
人生を生きている」
と思うからこそ、
エゴイズムが生まれてくるのです。
 
有限の人生を
好きに生きようという気持ちから、
「われが、われが」「私が、私が」
という気持ちが
出てくるのです。 

『愛の原点』より

#エゴイズム #有限 #起源


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【他人がうらやましいか】

おまえたちは、いたずらに他の人をうらやんではならない。
その人が、たまたま、いい家に生まれたとか、
その人の両親が、たまたま優秀であったとか、
その人が、たまたま都会に生まれたとか、
その人の兄弟が、恵まれた経歴を持っているとか、
その人の肉体が、たぐいまれなる美しいものであるとか、
このようなもので、心を嫉妬で曇らせてはならない。

人には、それぞれの過去があり、
過去、積み上げてきたものがある。
そのすべての結果が、現在というものに表れているのだ。
他の人の人生に取ってかわることはできないのだ。
自分は、自分の人生を生きなければならないのだ。

おまえたちが心しなければならぬことは、
自分の名前で他人の人生を生きることではなく、
自分の名前で自分の人生を生き切るということなのだ。
自分の人生は、自分以外には、生きてくれる人はいないのだ。
それを大切にしなくてはならない。
自分の名前を大切にするように、
自分の人生を大切にしなくてはならない。

他の人とその身を置きかえたところで、
いかばかりの幸福感があるであろうか。
人には、それぞれの悩み、苦しみもあるものだ。
それらの人々の幸福なる点のみを見て、
悩みや苦しみを見ていないのが、
自分の、その迷いの姿であるのだ。

他の人のよいところのみを見て、
それを、おのが惨めさと引き比べてはならない。
あなたが、あなた自身をいかに低く評価しているとも、
他の人のなかには、それを高く考えている者もいる。
このように、すべて、お互いの目からは、
物事は相対的に見えるということを忘れてはならない。

「永遠の仏陀」より

#他の人 #自分の人生 #その人