戦後、軍人軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄氏は産経新聞の取材に応じ、下記のように証言しています。(2006/8/27 産経「『軍命令は創作』初証言」より)

「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」

戦傷病者戦没者遺族等援護法(補償)は軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっており、軍命令で行動していたことにして村長らが赤松嘉次元大尉に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼したのです。

赤松元大尉が戦後弁明もせず真相を語らなかったのは、それによって「援護」(補償)を受け取った遺族たちに迷惑がかかるからという親切心からでした。

曽野氏は『鉄の暴風』著者の太田良弘氏に会い、太田氏が渡嘉敷島に行っていないこと、また、証言者二人に那覇まで来てもらって取材したことを聞き出しています。

この二人は渡嘉敷島の隣の座間味という島の助役と南方からの帰還兵であり、帰還兵は事件当時まだ南方におり、事件を直接目撃していません。島の助役は座間味での集団自決は目撃していましたが、渡嘉敷島での事件は人から聞いたものでした。



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沖縄戦では、いわゆる「日本軍の集団自決命令」が問題となっています。

今年、教科書検定を通過した『日本史B』の高校教科書には、「日本軍により県民が集団自決を強いられた」(実教出版)、「日本兵による命令によっても集団自決をとげた」(清水書院)と記されていますが、これは事実なのでしょうか?

日本軍による沖縄県民への「自決命令」を最初に広めたのは、昭和25年に著された沖縄タイムス編『鉄の暴風』(朝日新聞社発行)で、下記のように記されています。

「避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松(大尉)からもたらされた。『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ』」

これについて作家の曽野綾子氏が渡嘉敷島に渡り、当時の状況を直接見聞した人たちの証言を丹念に取材し、赤松大尉の自決命令を伝えたとされる島の駐在巡査・安里喜順氏からは、当時の赤松嘉次大尉はこう語ったと証言しています。

「あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ。」(曽野綾子著『沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実』(ワック)より)

また、女子青年団長だった古波蔵蓉子さんは赤松大尉に「私は(略)斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことあるんですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、(赤松さんに)怒られて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさいと言って戻された」と証言しています。(同上)



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さて、6月23日は沖縄戦から68年目の「慰霊の日」で、最後の激戦地となった糸満市で縄県主催の戦没者追悼式が開催されました。

沖縄戦では犠牲者が20万人を超え、沖縄県民の4人に1人が命を落とされました。心より亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。



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