心を開くまで辛抱強く寛容の姿勢のことを
忍辱(にんにく)の姿勢といいます。
これが、どうも悪用されているようです。
あるいは、何もしないことの隠れ蓑にしているところが少しあります。
善悪を言えないような宗教というのは、
宗教しての使命を果たしていないのです。
間違っているものについては、
「間違っている」と教えなければ、
人は救えません。
「悪でもよいのです」という姿勢で、どうしますか。
正しいものが、「悪い」「間違っている」などと言われても、
「いや、そうした考え方もあるでしょう」
「それもひとつの考えです」などというようなことで
済ませていて、間違っているものについては、
「間違っている」と教えなければ、
人は救えません。
私たちは、あくまでも思想戦です。
言葉で、思想で、戦うのです。
「言葉で戦い、行動でもって教化する」という戦いですから、
非常に平和的ではありますが、「正は正、邪は邪」として、
やはり、言うべきことはきちっというという戦いです。
これはやらなくてはなりません。
仏教が忍辱を説いているのは、
「悪魔を許容せよ」
「悪に屈従せよ」などということを
教えているのではないはずです。
『仏陀の証明』 第6章 より
忍辱(にんにく)の姿勢といいます。
これが、どうも悪用されているようです。
あるいは、何もしないことの隠れ蓑にしているところが少しあります。
善悪を言えないような宗教というのは、
宗教しての使命を果たしていないのです。
間違っているものについては、
「間違っている」と教えなければ、
人は救えません。
「悪でもよいのです」という姿勢で、どうしますか。
正しいものが、「悪い」「間違っている」などと言われても、
「いや、そうした考え方もあるでしょう」
「それもひとつの考えです」などというようなことで
済ませていて、間違っているものについては、
「間違っている」と教えなければ、
人は救えません。
私たちは、あくまでも思想戦です。
言葉で、思想で、戦うのです。
「言葉で戦い、行動でもって教化する」という戦いですから、
非常に平和的ではありますが、「正は正、邪は邪」として、
やはり、言うべきことはきちっというという戦いです。
これはやらなくてはなりません。
仏教が忍辱を説いているのは、
「悪魔を許容せよ」
「悪に屈従せよ」などということを
教えているのではないはずです。
『仏陀の証明』 第6章 より
