「仏の子としての仏性」
霊には耳はありませんが、生きている人間の声を聞くことはできます。
彼らには鼓膜はありません。しかし聞くことはできます。
音楽を聴くことも可能で、生前好きだった音楽をかけてもらうと、
霊になったあとでも、それを 聴けば喜びます。
生前好きでなかった音楽の場合には、霊になったあとに聴いても
喜びません。
そのように、肉体を失ったあとでも、
同じような感じ方を持っています。
これが、「心」といわれるものなのです。
そのなかには、もちろん頭脳的な作用もあります。
この世的な頭のよし悪しというものがあります。
昔は、「頭がよい人は脳味噌の皺(しわ)の数が多い。
頭の悪い人は 皺の数が少ない」というように言われたこともあります。
しかし、現実には、この肉体を失い、
脳を失っても、魂のなかには考える作用があります。
このように、この世的にいろいろと体験することを受けとるもの、
そしてそれについて善悪、美醜、好悪などの価値判断をするもの、
それを「心」といいます。
その「心」があって初めて、人間は「人間」と言うことができます。
これがなかったら、人間は「地球上でまったく偶然に動いている物体」
という以上のもので はないと思います。
心があるからこそ人間は人間であり、かつまた尊いものなのです。
しかも、不思議なことに、その心は、
親が一緒ではない者どうしでも、同じような法則性を持っています。
善悪、美醜の感覚というものは、割合に共通したものがあります。
もちろん、人によって、その意味づけ、判断に多 少の違いはあっても、
たとえば、美しいものを見て美しいと感じる感覚、
また甘いものを食べて甘いと感じる感覚は、原則は一緒です。
日本に住んで いる人も、地球の裏側に住んでいる人も、
甘いものを食べれば甘いと感じます。
しかし、同一の親から生まれたわけではありません。
それも何千年、何万年、それ以上のあいだ、
まったく別に生活していたはずです。
まったく別々のところにいたのに、甘いものは甘い、
辛いものは辛いと感じる感覚があります。
また、うれしいときには笑い、悲しいときには涙を流します。
そのように、個人個人の小さな誤差はあったとしても、
一定の条件のもとに同じような感 じ方をします。
人間の心には、そういう共通性、普遍性があります。
言葉は通じなくても、そういうところがあるのです。
これが実は、みなさんの心のなかにある
「仏性」なるものの現われ方なのです。
仏性というのは、いったい何であるかというと、要するに、
この世で起きるさまざまな出来事や経験を感じとることが
できるということ、その感じ方に幾通りかの感じ方、
一定の方向性があるということ、これが実は仏性のそもそもの
始まりなのです。
仏性、仏の性質、悟りの性質というものは、実はすべての人が、
魂の感覚として、一定の価値判断をすることができるという可能性の
ことを言っているのです。
「心の挑戦」より