あの世の存在を信じることは、
なぜ大事なのでしょうか。
それは、「真実の人生」を生きるために必要だからです。
人間は、どのような意味を持った存在なのか。
つまり、人間とは何なのか。
人間は、どこからか来たものなのか。
それとも、偶然に生まれたものであり、
唯物的に物としてのみ存在するものなのかという、
人間存在の根本に関する理論は、
人生の意味や生き方と大きくかかわっています。
そして、あの世があることを知らない人間は、
『真実の人生とは何か』という問いに答えることは
できないであろうと私は考えています。
そのような人の人生は、
非常に小さな箱庭のなかで
生きているようなものだと思います。
人間は、もっともっと素晴らしいものです。
みなさんも、言葉としては、これが分かるでしょう。
また、人間の尊厳ということも、
基本的人権ということも、
「人一人の生命は地球より重い」ということも、
言葉としては分かるでしょう。
しかし、その本当の意味、根底にある意味は、
あの世の存在を信じなくては知ることができないのです。
『旧約聖書』を読むと、
「神は、単なる砂や泥から、まるで粘土を
こねるようにして世界や人間を創った」
というようなことが書いてあります。
また、「人間の形をとったものに対して、
生命の息吹を吹き込んだ」
とも書かれています。まさにそのとおりです。
この「生命の息吹」があってこそ、人間は尊いのです。
それがなければ、人間の体は、分解されて土に還ると、
土の成分とまったく変わるところがありません。
火葬場で焼いてしまえば、
一握りの骨と二酸化炭素や
水分以外の何ものでもありません。
それのどこが尊いのでしょうか。
二酸化炭素が尊いのでしょうか。
あるいは、蒸発した水分でしょうか。
残った一握りの骨でしょうか。
いったい、どれが尊いのでしょうか。
そう考えたとき、
人間を物質としてのみ捉える人間観を持っている人には、
人間の尊さを論理的に導き出すことは
決してできない」と私は思うのです。
確かに、人間の体は、
死ねば土に還る素材でできています。
しかしながら、素材が尊いのではなく、
体のなかに宿っている、
生命の息吹とでも言うもの、
魂とでも霊とでも言うべきもの
この存在こそが尊いのです
「愛、無限」より
なぜ大事なのでしょうか。
それは、「真実の人生」を生きるために必要だからです。
人間は、どのような意味を持った存在なのか。
つまり、人間とは何なのか。
人間は、どこからか来たものなのか。
それとも、偶然に生まれたものであり、
唯物的に物としてのみ存在するものなのかという、
人間存在の根本に関する理論は、
人生の意味や生き方と大きくかかわっています。
そして、あの世があることを知らない人間は、
『真実の人生とは何か』という問いに答えることは
できないであろうと私は考えています。
そのような人の人生は、
非常に小さな箱庭のなかで
生きているようなものだと思います。
人間は、もっともっと素晴らしいものです。
みなさんも、言葉としては、これが分かるでしょう。
また、人間の尊厳ということも、
基本的人権ということも、
「人一人の生命は地球より重い」ということも、
言葉としては分かるでしょう。
しかし、その本当の意味、根底にある意味は、
あの世の存在を信じなくては知ることができないのです。
『旧約聖書』を読むと、
「神は、単なる砂や泥から、まるで粘土を
こねるようにして世界や人間を創った」
というようなことが書いてあります。
また、「人間の形をとったものに対して、
生命の息吹を吹き込んだ」
とも書かれています。まさにそのとおりです。
この「生命の息吹」があってこそ、人間は尊いのです。
それがなければ、人間の体は、分解されて土に還ると、
土の成分とまったく変わるところがありません。
火葬場で焼いてしまえば、
一握りの骨と二酸化炭素や
水分以外の何ものでもありません。
それのどこが尊いのでしょうか。
二酸化炭素が尊いのでしょうか。
あるいは、蒸発した水分でしょうか。
残った一握りの骨でしょうか。
いったい、どれが尊いのでしょうか。
そう考えたとき、
人間を物質としてのみ捉える人間観を持っている人には、
人間の尊さを論理的に導き出すことは
決してできない」と私は思うのです。
確かに、人間の体は、
死ねば土に還る素材でできています。
しかしながら、素材が尊いのではなく、
体のなかに宿っている、
生命の息吹とでも言うもの、
魂とでも霊とでも言うべきもの
この存在こそが尊いのです
「愛、無限」より
