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「豊かさと潤いとは」

人間は、ともすれば、豊かさというものを忘れがちです。
雨上がりの大自然を思い浮かべてください。
「池の上の霧が晴れ上がって、太陽の光が射してくる。
草の葉にたまっていた雨の滴が、一つ、二つと、
時間を置いて、池の水に落ちていき、確かな波紋をつくっていく。
 
葉の上でキラキラと輝いている水玉。
起き抜けのような太陽の光を浴びて、虹色に光っている、
その美しい姿。それが、葉の先に集まって大きな玉となり、
重みをたたえて葉を下に押し下げ、やがて、ある瞬間に、
プルンと葉を震わせて、水滴となって落下し、池に落ちる」
 
その輝きの瞬間、私たちは潤いというものを感じます。
これは、豊かさとは明らかに別の感覚であって、
「潤い」と言うにふさわしい感覚だろうと思います。
 
これを別の言葉で言うならば、
一日の生活のなかにある、寂たる時間、静寂なる時間。
まるで永遠を感じさせるような、寂々たる時間。
その時間を持つ」とい うことになりましょうか。
こうした静寂なる時を持ち、心を静めることが、
潤いにつながっていくと私は感じるのです。

豊かさや潤いを生活のなかに取り込んでいくには、
どうすればよいのでしょうか。

豊かな感覚、また、潤いのある時間。こうした際に、
心は、その扉を開き、無限の彼方へと
梯子を伸ばしていくように感じられます。
天空に架かる虹のように、夢の梯子を、夢の階を、
胸の扉から架けようとしているかに見えます。
 
そうです。豊かな時間を生きるためには、
大いなる仏、主と、また、主を表現している大自然と、
一体にならなくてはなりません。
 
大自然の姿の偉大さよ。大自然の豊かな心よ。
それを見、それを感じ取るときに、
「ああ、自分も、豊かなるものと一つになりたい。
豊かなるものにつながっていきたい」と願うのは、
ごく普通の素直な感情だと言ってよいでしょう。
 
このときに、人々は、ためらいもなく、衒(てら)いもなく、
祈ることが可能になるのです。

「限りなく優しくあれ」より