長崎に原爆が投下された1945年8月9 日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、福岡県八 幡市(現北九州市)の八幡製鉄所で「コール タールを燃やして煙幕を張った」と、製鉄所の 元従業員が毎日新聞に証言した。米軍は当初、 小倉市(同)を原爆投下の第1目標としていた が、視界不良で長崎に変更。視界不良の原因は 前日の空襲の煙とされてきたが、専門家は「煙 幕も一因になった可能性がある」と指摘する。 【曽田拓、比嘉洋、高芝菜穂子】
◇米軍機「視界不良」の一因か
「煙幕作戦」はこれまで、長崎の被爆者への 配慮などから関係者も公言せず、実態がほとん ど知られていなかった。だが、戦後69年がた ち、当時を知る生存者も減る中、八幡製鉄所 (現新日鉄住金)の元従業員ら3人が証言を決 断した。
このうち、太平洋戦争末期に製鉄所構内の堂 山製缶工場で働いていた大分市在住の宮代暁 (さとる)さん(85)が、実際に「煙幕を 張った」と証言した。8月9日は工場隣の木造 事務所におり、ラジオで「少数機編隊が北上 中」と聞き、その後、敵機襲来の警報と同時に 上司に命じられ煙幕装置に点火。大量の黒煙が 上がったのを確認して地下壕(ごう)に避難し た。B29が去って事務所に戻ると「長崎が新 型爆弾で攻撃された模様」という放送があった という。
宮代さんによると、従業員たちは、8月6日 に広島市が「新型爆弾(原爆)」で壊滅したこ とを広島経由で八幡に戻った同僚から7日ごろ に聞いていた。北九州には八幡製鉄所のほか兵 器工場などもあり、「次はこっちだと考えてい た」と言う。
工藤洋三・元徳山高専教授が収集した米軍資 料によると、原爆を積んだ2機は9日午前9時 55分、小倉上空に到達。原爆投下を3回試み たが、目標が「もやと煙」で見えず、第2目標 の長崎の攻撃を決定し、10時58分に投下し た。
一方、旧防衛庁の「戦史叢書(そうしょ)」 によると西部軍管区司令部は7時48分に警戒 警報、7時50分に空襲警報を発令。宮代さん が煙幕を張ったのはこの時とみられる。
八幡製鉄所構内の煙幕装置は、宮代さん以外 の2人の元従業員らも目撃。取材に「半分に輪 切りにしたドラム缶にコールタールを入れたも のが並んでいた」などと話した。コールタール は製鉄所で出る副産物で、燃やすと黒煙を上げ る。
下関地方気象台(山口県)の記録では9日午 前10時は晴れ。関門海峡を隔てた小倉方面は 視界がわずかにかすむ「弱い煙霧」だった。北 九州市史は、原爆投下を妨げた「もやと煙」に ついて「雲だけではなく、前日(8日朝)の八 幡空襲で生じた煙が風向きによって小倉方面を 覆った」とするが、根拠は示していない。「空 襲後の夕立で翌日まで煙は残っていなかった」 との市民の証言もある。
八幡空襲を調査する藤澤秀雄・長崎大名誉教 授(80)は「煙幕が空襲の煙や灰、前日の夕 立による水蒸気と混ざり、視界を防いだ可能性 はある。広島が攻撃された情報を独自に入手し た従業員たちが、警戒を強めていたという事実 も注目に値する」と話している。
◇69年の苦悩告白
鉄都・八幡で展開された「煙幕作戦」。小倉 への原爆投下見送りにどの程度影響したかは明 らかでないが、第2目標の長崎では約15万人 が被爆直後に死傷した。作戦に携わった人たち は、語ることもできず、心に重荷を抱えて戦後 69年間を生きてきた。
「煙幕で長崎の人たちに迷惑をかけることに なったんじゃないかという気持ちが、ずっと あった」。装置に火を付けた宮代暁さんは、つ らそうな表情で話した。長女の工藤由美子さん (56)は「私たちには幼いころから煙幕につ いて聞かせてくれたが、長崎の犠牲者を考える と公言できなかったのでは」と父の胸中を思い やる。
製鉄所内の発電施設で働いていた福岡県福津 市の田坂忠雄さん(92)は、北門付近から構 内の線路沿いに並ぶドラム缶の煙幕装置を目撃 していた。「日にちは覚えていないが、煙を見 た記憶もある」と振り返る。
学徒動員で構内の工場に通っていた北九州市 八幡西区の山元勉さん(85)も「ドラム缶が 置かれ、(燃やすための)コールタールが入っ ていた」と存在を記憶していた。「敵機接近を 知らせる警報が鳴ると火をつける」と聞かされ ていたという。
もっとも、煙幕作戦自体は「新型爆弾」投下 に備え急きょ立案されたわけではなさそうだ。 旧日本軍による製鉄所の防空演習文書には、空 襲の際に発煙筒などを使い煙幕を張る計画が記 されている。
元従業員らの証言について、長崎原爆被災者 協議会の山田拓民(ひろたみ)事務局長(8 3)は「戦後70年近くになっても原爆を巡る 新しい事実が明らかになるのは興味深いし、こ れからも掘り起こしていく必要がある。煙幕で 思い悩まないでほしい。許せないのは、投下地 点がどこであれ、あんな爆弾を大勢の市民がい るところを狙って落とそうとしたことだ」と 語った。【比嘉洋、高芝菜穂子、曽田拓】
2014年07月26日
◇米軍機「視界不良」の一因か
「煙幕作戦」はこれまで、長崎の被爆者への 配慮などから関係者も公言せず、実態がほとん ど知られていなかった。だが、戦後69年がた ち、当時を知る生存者も減る中、八幡製鉄所 (現新日鉄住金)の元従業員ら3人が証言を決 断した。
このうち、太平洋戦争末期に製鉄所構内の堂 山製缶工場で働いていた大分市在住の宮代暁 (さとる)さん(85)が、実際に「煙幕を 張った」と証言した。8月9日は工場隣の木造 事務所におり、ラジオで「少数機編隊が北上 中」と聞き、その後、敵機襲来の警報と同時に 上司に命じられ煙幕装置に点火。大量の黒煙が 上がったのを確認して地下壕(ごう)に避難し た。B29が去って事務所に戻ると「長崎が新 型爆弾で攻撃された模様」という放送があった という。
宮代さんによると、従業員たちは、8月6日 に広島市が「新型爆弾(原爆)」で壊滅したこ とを広島経由で八幡に戻った同僚から7日ごろ に聞いていた。北九州には八幡製鉄所のほか兵 器工場などもあり、「次はこっちだと考えてい た」と言う。
工藤洋三・元徳山高専教授が収集した米軍資 料によると、原爆を積んだ2機は9日午前9時 55分、小倉上空に到達。原爆投下を3回試み たが、目標が「もやと煙」で見えず、第2目標 の長崎の攻撃を決定し、10時58分に投下し た。
一方、旧防衛庁の「戦史叢書(そうしょ)」 によると西部軍管区司令部は7時48分に警戒 警報、7時50分に空襲警報を発令。宮代さん が煙幕を張ったのはこの時とみられる。
八幡製鉄所構内の煙幕装置は、宮代さん以外 の2人の元従業員らも目撃。取材に「半分に輪 切りにしたドラム缶にコールタールを入れたも のが並んでいた」などと話した。コールタール は製鉄所で出る副産物で、燃やすと黒煙を上げ る。
下関地方気象台(山口県)の記録では9日午 前10時は晴れ。関門海峡を隔てた小倉方面は 視界がわずかにかすむ「弱い煙霧」だった。北 九州市史は、原爆投下を妨げた「もやと煙」に ついて「雲だけではなく、前日(8日朝)の八 幡空襲で生じた煙が風向きによって小倉方面を 覆った」とするが、根拠は示していない。「空 襲後の夕立で翌日まで煙は残っていなかった」 との市民の証言もある。
八幡空襲を調査する藤澤秀雄・長崎大名誉教 授(80)は「煙幕が空襲の煙や灰、前日の夕 立による水蒸気と混ざり、視界を防いだ可能性 はある。広島が攻撃された情報を独自に入手し た従業員たちが、警戒を強めていたという事実 も注目に値する」と話している。
◇69年の苦悩告白
鉄都・八幡で展開された「煙幕作戦」。小倉 への原爆投下見送りにどの程度影響したかは明 らかでないが、第2目標の長崎では約15万人 が被爆直後に死傷した。作戦に携わった人たち は、語ることもできず、心に重荷を抱えて戦後 69年間を生きてきた。
「煙幕で長崎の人たちに迷惑をかけることに なったんじゃないかという気持ちが、ずっと あった」。装置に火を付けた宮代暁さんは、つ らそうな表情で話した。長女の工藤由美子さん (56)は「私たちには幼いころから煙幕につ いて聞かせてくれたが、長崎の犠牲者を考える と公言できなかったのでは」と父の胸中を思い やる。
製鉄所内の発電施設で働いていた福岡県福津 市の田坂忠雄さん(92)は、北門付近から構 内の線路沿いに並ぶドラム缶の煙幕装置を目撃 していた。「日にちは覚えていないが、煙を見 た記憶もある」と振り返る。
学徒動員で構内の工場に通っていた北九州市 八幡西区の山元勉さん(85)も「ドラム缶が 置かれ、(燃やすための)コールタールが入っ ていた」と存在を記憶していた。「敵機接近を 知らせる警報が鳴ると火をつける」と聞かされ ていたという。
もっとも、煙幕作戦自体は「新型爆弾」投下 に備え急きょ立案されたわけではなさそうだ。 旧日本軍による製鉄所の防空演習文書には、空 襲の際に発煙筒などを使い煙幕を張る計画が記 されている。
元従業員らの証言について、長崎原爆被災者 協議会の山田拓民(ひろたみ)事務局長(8 3)は「戦後70年近くになっても原爆を巡る 新しい事実が明らかになるのは興味深いし、こ れからも掘り起こしていく必要がある。煙幕で 思い悩まないでほしい。許せないのは、投下地 点がどこであれ、あんな爆弾を大勢の市民がい るところを狙って落とそうとしたことだ」と 語った。【比嘉洋、高芝菜穂子、曽田拓】
2014年07月26日