高校を卒業して、会社の寮に入り、18歳から5年程は、毎週末に祖母のお世話をする為に、片道1時間以上かけて、金曜日の会社終わりに、祖母宅へ行き、日曜日の夜遅くに、会社の寮に戻る生活でした。

その時、私もお金が無かったですから、往復の交通費も、大変でした。

だから、お金も無かったですし、飲みにも行けないし、流行っていたクラブにも行った事が無いし、社員旅行も、行けなかったりしました。
※お酒は、20歳を超えてからですが。

母方の祖母は、総合病院の外科の婦長までした人なので、元々お金が無かった訳ではありませんが、私財を投じて、みなしごを育てたり、学校に行かせたり、人の為に使い、最期の最期には、わずかな年金で暮らしていました。
だから、祖母にも、あまりお金がありませんでした。

私財を投じて、世話を焼いて来た人達からは、祖母は患って、何も出来なくなってからは、不義理をされ、入院しても、見舞いすら来てくれませんでした。
それでも、祖母は、恨む事なく、何か返してもらおうと思って、していないから、世話を焼いた人達が、上手く生きて行けているなら、良かった。と言える人でした。
不義理をされて、患ってからは、蜘蛛の子を散らした様に去って行った人達。
見舞いにすら来てもらえず、寂しかったと思うけど、逆に『どうしているんだろう。』と案じていました。

祖母の介護は、年々大変になって行きました。
身体の自由がどんどん利かなくなります。
人が変わった様に、ワガママを言う様になり、度々、私も困る様になって行きました。

毎週金曜日の仕事終わりに、祖母宅に行くけど、もっと早く来れないのか。と怒ります。
日曜日の夜遅くまで、出来るだけ居ましたが、翌日から、また会社なので、帰らないといけません。
通いでは無く、通勤して欲しいと言われましたが、片道1時間以上もかかり、会社から駅まで、徒歩圏内では無く、バスに乗らないと行けなくて、乗り合わせも悪かったですし、何より、とても残業が多かったので、終電に乗れない事もありますし、通勤は、困難でした。

当時、まだパソコンも、普及しておらず、オフコンの時代。
パソコンへと切り替わって行く時代でした。
携帯電話も、PHSやガラケー時代で、持っていない人も多かった時代でした。
だから、手作業も多くて、毎月の月次決算期などは、夜遅くまで、残業でした。
中間決算、本決算期になると、拘束時間も長く、リフレッシュ出来ないまま、週末は、介護生活でした。

日曜日に帰ろうとすると、寂しい祖母は、自殺をほのめかしたり、平日も、寮に電話があり、会社を休んで来て欲しい等、ワガママを言う様になり、私も、働かないと生活も出来ませんから、心身共に疲弊して行きました。

そんな中でも、祖母に怒った事は、一度もありませんし、年老いた祖母に、キツい事は言えず、私は、ずっと我慢し続けました。

そんな生活を5年近くしていました。
祖母が入院したり、退院する等の時は、会社を休まないといけないですし、同期会にも、一度も出席は出来ませんでした。

大手一部上場企業なので、有名大学卒業が多かったです。
私自身は、実業高校卒も、ひけめを感じていました。
自分よりも、遙かに仕事が出来ない人でも、大卒ってだけで、自分よりも、給料が高いですし、やり甲斐の様なものも、感じられませんでした。
手柄を立てても、上司の手柄。
何度か、手柄と言う程でも無いですが、金一封(千円くらいですよ)を貰いましたが、給料が上がる訳でも無く。。。

とにかく資格を取りたい、大学に行きたいと思いました。
祖母の介護をしながら、働きながら、勉強をしました。
修了したら、会社が全額費用負担をしてくれる制度がありましたので、大学の通信教育や資格試験の勉強も、その時にしました。

お金が無かったから、会社に全額の費用を出して欲しいので(笑)
必死でやりました。

初めの一年くらいは、テーブルすらも無くて、ダンボールがテーブルだったので、勉強のし難い環境でした。
タンスも、初めは、ダンボール箱から、服を入れたり出したりしていました(笑)

食べるのもやっと。
家財道具すら、ろくに無い生活。
祖母の介護と勉強と仕事。
そんな生活の中で、給料日には、実家に送りました。
当たり前に、何不自由なく、暮らせる様になるまで、私の下積みは、とても長かったです。

5年目に祖母は、自宅介護が不能な寝たきりになり、老人ホームに入りました。
私も、18歳からの介護だったので、遊びたい年頃ですし、仕事と勉強と介護で、お金も無く、心身共に一杯一杯でした。
とても疲弊していました。

祖母は、老人ホーム入所後も、長らく自由の利かない身体で、長生きをしました。
98歳まで生き、ひ孫の顔も見て、亡くなりました。

可能な限り、私の父も、私も、老人ホームに行きましたし、入院をすれば、病院へも行きました。

でも、祖母は、認知症で、私達が来た事を覚えていないんです。
だから、私達の悪口を滅多に来ない姪っ子などに言う様になりました。
滅多に来ない姪っ子達、状況も判らないのに、私達は、悪者です。。。

私は、5年介護をして、その後も、ずっとほったらかしにしていません。
老人ホームや病院の記録にも、訪問している記録が残っています。

でも、祖母が亡くなった時、私は、祖母の姪っ子達から、かなり罵倒をされました。
父母より、遥かに年上のおばさん達に囲まれて、罵倒され、恐怖でした。
一言、私『ほったらかしになんて、していません。』としか言えませんでした。
『あんなに可愛がってもらったのに、酷い孫だ!』とか、『不義理な子だ!』とか、言いたい放題、罵倒されました。
滅多に来ない、実際に面倒をみていない人達から、酷い罵倒をされて、今だに悪者になっています。

私は、祖母の面倒をみていたけど、祖母の自宅も、お金も、何も貰ってはいません。
でも、何故か、私が祖母から、奪ってお金に変えたと思われています。
一人娘の私の母が自宅などは、処分しました。
私は、一円も、貰ってはいません。
私は、何も貰っていないと言いましたが、信じてもらえないし、罵倒され、悪く言われるから、縁を切りました。
何を言っても、決めつけられて、信じてもらえません。
遊びたい年頃に、同期とも、友達とも、遊ぶ事も出来ず、毎週末に通っていたのに、祖母から、身内に悪口を言われていたのも、とてもショックでした。
認知症だったし、何も解らなくなっていたから、しょうがなかったんだと思う事にしていますが、身内から罵倒された事は、長らく心の傷になりました。

一番可愛がってもらって、行き来のあった祖母の妹からも、訪問しても、玄関のドアチェーンをかけたままで、不信感を丸出しの対応をされ、追い返されました。
誤解は解けないまま、祖母の妹も、亡くなりました。

一生懸命、誠意を尽くして、私なりに頑張ってしていた事も、全てそんな理不尽な憂き目に遭いました。