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[竹下雅敏氏]吉備真備を八咫烏の創始者であり賀茂氏の祖とする説は誤り ~地祇系の賀茂氏における血筋の入れ替え~
[竹下雅敏氏]吉備真備を八咫烏の創始者であり賀茂氏の祖とする説は誤り ~地祇系の賀茂氏における血筋の入れ替え~
竹下雅敏氏からの情報です。
————————————————————————転載元より抜粋) 【吉備氏】
孝霊天皇の皇子吉備津彦命は四道将軍として異母弟の若建吉備津彦命とともに吉備国へ派遣される。
その後、吉備国に留まり吉備氏族として繁衍して下道、上道、賀陽、三野、笠、苑などの諸氏に分流。
後裔の吉備真備は養老元年留学生として入唐、帰朝後は朝廷内に重きをなし従二位右大臣まで昇る。
下道国造家が真備以降は吉備朝臣姓を賜り改称する。
《吉備氏族初期綱要》
————————————————————————転載元より抜粋) 【賀茂氏(地祇系)】
大国主命のの後裔、太田田根子の子大鴨積命を祖とする地祇系の賀茂氏。
遣唐使となった吉備麻呂に始まる賀茂氏は陰陽道の家系として有名であり、慶滋保胤の「池亭記」は隠棲文学の祖とも謂われている。
末裔の安倍家からの養子の幸徳井家は、南都奈良を根拠とした地下官人として幸徳井暦を編纂した
《陰陽道賀茂氏》
転載元より抜粋)
孝霊天皇の皇子吉備津彦命は四道将軍として異母弟の若建吉備津彦命とともに吉備国へ派遣される。
その後、吉備国に留まり吉備氏族として繁衍して下道、上道、賀陽、三野、笠、苑などの諸氏に分流。
後裔の吉備真備は養老元年留学生として入唐、帰朝後は朝廷内に重きをなし従二位右大臣まで昇る。
下道国造家が真備以降は吉備朝臣姓を賜り改称する。
《吉備氏族初期綱要》
転載元より抜粋)
大国主命のの後裔、太田田根子の子大鴨積命を祖とする地祇系の賀茂氏。
遣唐使となった吉備麻呂に始まる賀茂氏は陰陽道の家系として有名であり、慶滋保胤の「池亭記」は隠棲文学の祖とも謂われている。
末裔の安倍家からの養子の幸徳井家は、南都奈良を根拠とした地下官人として幸徳井暦を編纂した
《陰陽道賀茂氏》
まず上の吉備氏の系図を見てください。右端に吉備真備の名が見えます。系図の解説によると、吉備真備は孝霊天皇の子孫であることがわかります。天皇は男系で継承されるため、孝霊天皇は遡ると神武天皇の、さらに遡ると天照大神の子孫であることがわかります。
次に地祇系の賀茂氏の系図を見ると、彼らは大鴨積命を祖とする氏族で、彼は大国主命の子孫です。したがって遡っていくと、スサノオノミコトの子孫であることがわかります。2つの氏族はまったく別です。
したがって、以前説明した通り、地祇系の賀茂氏の系図に出て来る吉備麻呂を吉備真備として、吉備真備を八咫烏の創始者であり賀茂氏の祖とする説は、誤りであることがはっきりとわかります。
系図の中で赤字の下線を入れた人物は、大田田根子命の子孫です。しかし黒字の下線を入れた人物は、私が調べたところ、神武天皇を大和に導いたレビ族の長老“ヤタガラスの翁”の子孫です。明らかに血筋の入れ替えが行われたことが見て取れます。しかし、その後陰陽道賀茂氏は衰退したとされており、彼らは歴史の表舞台から消え、下賀茂神社の宮司家に入り込み、その一族は秘密結社・八咫烏として天皇を守護する集団となったと思われます。
また、地祇系の賀茂氏から彼らの血筋は排除されたようです。この血筋の入れ替えを画策した人物は、役小角の父・大角であろうと思われます。