御家紹介 続編
「作左衛門義矩は孫左衛門と三木仁右衛門の娘とにできた子で妻は堀主計直浄の養女であり正保二年から溝口氏に奉仕して百五十石を玉りぬ。」と武鑑に記されている。正保二年とは1646年で以前仕えていた加藤氏が会津騒動で改易になった後に浪人した事実と月日が合致することは確かである。気になるのは百五十石という石高である。ネットで調べてみ ると四公六民とあったのでおよそ六十石が実際の収入であるが当時の貨幣でおよそ二十両である。この中で実際は主食である米の量を引いた分から貨幣に変換するのでこれを下回った額ではあるがこの中で生活していたことを考えると倹約が重要であることがよくわかる。
歴史上の人物について
最近のマイブームは自分の先祖について研究することだが、それにまつわる資料が見つかったので書いていこうと思う。しかしながらどうして興味をもったのかはよくわからないが東日本大震災後に自分が今生活していられることに感謝しながら先祖の墓参りをしたことと大学の歴史の教授に暇があればそういったことをするのもいいよと言われたことが重なって今に至った。
名字はここでは記さないが、その由来となったのは中臣鎌足(藤原鎌足)が天智天皇から賜った姓らしく、
その地は藤原氏の直轄地のようだったらしい。その後は藤原秀郷の末裔が支配しており資料には、「蒲生飛騨守殿に仕へ食録五百石の士たりける」と記されていた。(『新発田藩資料 世臣譜』)この資料には先祖であろう人について書かれている(名字が同じであるだけだが)のでもしやと思った。なぜなら現在住んでいる場所と新発田市は近くであり県内にもこの名字は数少ない名字であるからである。それゆえ私が思うに明治維新の後、私の先祖はこの土地に移り住み商売を始めたのではないかと推察するに至った。
過去帳などで調べれば簡単にわかるだろうがなにしろ当家は分家であり本家との交流もそこまで盛んに行われてはいないからである。話を元に戻せば、蒲生氏が会津に移封されたのちに当家が断絶し、その後加藤氏が会津に移封されまたもや断絶した後に浪人し、新発田藩の溝口氏に仕えるようになったのが正保二年のことである。これ以前の資料については「会津鑑」に記されているという口コミをいただいたので暇があるとき調べようかと思っている。
こののちの資料はまたの機会にする。
