説明のつかない不思議な現象や体験をしたことはありますか?
と聞かれると、多分、二割ぐらいの人が「はい」と答えるんじゃないか、と自分では思ってます。
これはあくまで自分の経験からの想像なので、実は二割もいないかもしれません。
では、「あなたは幽霊を見たことがありますか」となるとどうでしょう。
これだと比率はぐっと下がる気がします。第一、自分の見たものが幽霊か気のせいかススキの影かわからない状態で「私の見たのは確かに幽霊だ」と断言するには、ご本人においでいただいて「そうです、私が幽霊です」と証言してもらわないとなりません。無理な話です、それこそ志村けんの「変なおじさん」じゃないんだから。
と前置きしたうえで、自分の体験をお話ししたいと思います。最後まで読み通した人には、よくこんなもの飽きずに読んだよねどれだけ暇なの賞を差し上げます。(そのぐらい長いのよ)
様々な怪異をいやというほど体験したわたしも、「こりゃ幽霊だ」と言えるものを見たことは数えるほどしかありません。
一番はっきり見たのは、父がなくなって二、三週間たったころのそれも、真昼のことでした。
うちは百十坪ほどの敷地に、父が建てた家が二軒、建っています。
現在、築五十年ぐらいの旧宅にはわたしたち夫婦が住んでいます。(かなりリフォームしました)子どもたち二人はすでに成人して家を離れました。もう一軒の、築三十年ぐらいの二世帯住宅は茨城に住んでいる姉一家といずれ同居するつもりで父が建てたのですが、義兄の仕事の都合で東京に出てくる予定が大幅に遅れてしまいました。結果、二階は空き家のまま、一階に両親が住んでいましたが、母が六十九歳で急死したのち、父一人が寂しく住んでおりました。
その父も八十九歳の時肺炎になり、施設で二年ほど過ごしたのち亡くなりました。
父は二軒の家に囲まれた小さな庭をとても愛していて、「わしのエビネランに水をやっているか」「ニワトコの花は咲いたか」と病床からしきりに尋ねてきました。最後は、家の庭で撮った母の写真やよく散歩した井の頭公園の写真を目で追いながら、静かに目を閉じてわたしに手を握られたままこの世を離れました。
父が亡くなって二週間ほどたったころ。
父の遺品を整理しに誰もいなくなった父の家に上がっていた時のことです。
庭の緑をすかして冬の日が差し込むダイニングから窓の外を見ると、
スーツを着た男性が、オリーブの木の横に立っているのが目に入りました。
今どき珍しく、つばのついたおしゃれな帽子をかぶっているので、よく顔が見えません。
不法侵入者? それともうちに何か用があってきたお客さんだろうか?
男性はこちらではなく私たちの住む家の方を見つめています。
そして二歩三歩、家に近づいたと思ったらそのまま、陽の光に溶け込むようにすうっと消えてしまったのです。
その瞬間、わたしは気付きました。
あれは、父だ。
九十二歳で亡くなった時の姿ばかり目に焼き付いていたけど、あの背格好におしゃれな帽子、高い鼻、あれは四十年ぐらい前の父の姿に違いない。
あの家が建った時、「どうだ、白亜の殿堂だ」(それほどの家ではありません、念のため)と大いに気に入っていました。多分、自慢の家に帰ってきたのでしょう。
それはとても自然なことに思えたので、怖いとか無気味とかそういうマイナスの感情は何もわきませんでした。ただ、幽霊というのは真昼でもこうしてはっきり見えるものなんだな。ということと、帰ってこられてよかったね、というせつなくあたたかい思いだけが胸に残りました。
次に「幽霊」と思われる存在を見たのは、八月の丁度お盆の頃。
背中を焼く夕日に照らされながら、汗だくで買い物から帰る途中のことでした。
十字路を渡って三件目が我が家、という時点で、わたしの視線の先には二人の男性がいました。
遠方を歩くのは黒い服を着た若い男性、目の前五メートルほどを歩いているのは灰色の服を着た、幾分腰の曲がった高齢の男性でした。
黒い服の男性が我が家の門の前を通り過ぎたころ、目の前にいた灰色の服の男性の姿が「ふっ」とかき消すように、いきなり消えてしまったのです。
わたしは呆然として足を止めました。それまで目の前にいたのは、体が透けていたり妙なオーラを纏っていたり、などということもない、本当にただの「おじいさん」だったのです。
それがいきなり、視界から消えてしまった。
おじいさんが消えたのは、我が家とお隣の境、塀の外に生えている芙蓉の木のあたりでした。
お隣は数年前にご夫婦が相次いで亡くなって今は空き家なので、訪れる人もいません。でも、もしかして何か用があってお客がお隣の門を開けて入られたのかもしれない。
わたしは足を速めてお隣の門を見ました。
鍵がかかったままで庭に人の姿はありません。芙蓉の陰に暑さ負けしてしゃがみこんでいるのかもと覗いてみたけれど勿論、いない。
前を見ると黒い服の男性が家から二軒先の曲がり角を曲がるところでした。
わたしは慌てて家に入り、留守番をしていた夫に声をかけました。
「ただいま。あのね、信じてもらえないかもしれないけどね、目の前で人が、おじいさんが、消えちゃった」
台所で麦茶を飲んでいた夫は、またか、という風に答えました。
「男の人ならさっき窓の外を通り過ぎるのを見たよ。黒い服の人でしょ」
「違う、その後ろを歩いてた、灰色の服のおじいさん」
「どこで消えたの」
「お隣の前、あたり」
「ふーん。じゃ、もしかして……」
夫の言いたいことはすぐに分かりました。
お隣のYさん。
ご夫婦で越してこられたときからご主人は身体が不自由そうで、家に閉じこもり姿を見ることもあまりなく、間もなく車いす生活になり、デイケアの車がよく家の前に停まっていました。
それに乗り込む姿とか、あるいは降りてくる様子をちらと見ることがあった程度で、お顔もはっきりと思い出せない程度のお付き合いでした。
わたしが留守をしていた時、お隣の奥様からSOSの電話が来たこともあったと夫から聞きました。車いす生活の御主人をトイレに連れて行こうとしたら廊下で車いすが倒れ、その状態でトイレのドアをふさいでしまい、どうにもならないので助けてほしいという話だったと。
夫はすぐに駆け付け、苦労してご主人ごと車椅子を立て直し、トイレ介助を手伝ったという話でした。
「ほんとにご迷惑をおかけしてすみません」汗びっしょりだったご高齢の奥様は何度も頭を下げられたそうです。
毎年秋にわたしが庭でとれた柿を持っていくと、どう断わっても慌てて家の中に入り、愛媛のミカンジュースとか、たまたまあったメロンとか、必ず何かお礼の品を差し出してくださいました。
四年ほど前にご主人が、翌年に奥様が亡くなりました。緩和ケア施設に入る前、奥様からお手紙が届きました。
……何不自由なくこれ以上の不満はなく、静かに終末を迎えたいと思っています。
何の悔いもない幸せな八十一年でした。
長い間我儘な私にお付き合い下さり、ありがとうございました。
皆様、せめて平均年齢まで頑張ってください。
口に出さないながら、わたしは思いました。
御主人が、……帰ってきたのかもしれない。
ちょうどお盆の時期だもの。
うちの父だって、あんなにはっきりとした姿で家に帰ってきたのをわたしは見ている。
こういうことって、普通に、あるのかもしれない。
ただ、見える人と見えない人がいるだけで。
幽霊という言葉には何とも言えないおどろおどろしさがあるけれど、わたしが見たその姿は、どちらも日の光の下で輪郭もはっきりと、なんの怪しさもなく存在していました。見ている間も、消えてからも、恐怖感はありませんでした。それは、何も恐れる必要のない存在だからなのでしょう。
家の中で、あの上品な奥様の淹れたお茶でも飲めていたらいいな。ただ、そう思いました。
さて、この後に続くのは「真夜中に見た何か」です。実はこっちが本題。
あえて幽霊と書かないのは、前述した経験に比べて、対象の姿かたちがはっきりしないから。
というより、ただ、説明しがたい異様なものを見た、としか言えないのです。
さて。わたしには、真夜中の散歩という趣味があります。
糖尿病持ちなので、体重を少しでも減らすためと何より健康の為に、よく歩くことを担当医師に勧められています。と同時に、わたしはもう一年近く「慢性眩暈症」(医学用語ではPPPDというらしい)を患っていて、四六時中波にもまれる船の甲板の上にいるような不安定さに悩まされながら日々を過ごしています。通院してリハビリを受けているのですが、なかなかよくなりません。
この目眩は「視界から受ける刺激」がそのまま体のふらつきに直結するので、人通りの多い道、雑踏、車がよく通る道路、商品の陳列棚や行きかうお客などなどがすべてNGです。おまけに暑さに超弱いので夏の昼間のウォーキングはまず無理。
仕方がないので、真夜中のひと気のない道路をぐるぐる歩くのが習慣になりました。
通り過ぎる街灯も刺激になるので、まっすぐできるだけ遠くを、月があれば月を、星があれば星を、動かないものだけを見つめて。
そしてこの時に履く靴は決まっている。とても履きやすい靴ばかり売っている吉祥寺の靴屋で選んだ黒いタウンシューズ。この靴を履いて歩くと独特なカツカツという音がして、どういう訳か猫やときには狸が後をついてくるのです。最大で五匹、わたしの後ろに猫が並んでついてきたことがあります。前を子狸が二匹、歩いていたことも。
まるで童話の世界のようですが、事実です。太った大人狸と並んで歩いたこともあります。これも怪異の一つかもしれないけれど、月と猫と狸を見ながらゆらゆら歩く深夜の時間は私にとってなくてはならない世界になりました。
こんな時間に手荷物も持たず、たらんとしたワンピースを着てふらふら歩く自分の姿は、他人から見たらさぞ無気味なことでしょう。しかも大抵の時、複数の動物を伴っている。自転車に乗ってパトロール中の近所の駐在さんと何度かすれ違ったことがあるのですが、物珍しそうに見られはするけれど、職質されたことはありません。多分「真夜中の猫おばさん」と認知されているのでしょう。ほっといていただけるなら何よりありがたいことです。
さてある夏の夜のこと、夜の生暖かい風に吹かれながら、しんとひと気のない街路にいつものようにカツカツと散歩に出ました。
当然視界は暗く、街路も狭い範囲を照らすだけで、遠く離れた道の先は鳥目のわたしにはうすぼんやりとしか見えません。いつもいつも揺らいでいる地面の上を、バランスを取りながら、ゆっくりとというより速足で進みます。ゆっくりこぐ自転車よりも早くこぐ自転車の方が安定しているという、あの理屈です。視界に動いているものが入ってこない深夜は、暗いけれど安心して歩けます。
そのうすぼんやりとした闇のかなたに、白い四角いものがひらひらと、動いているのが目に入りました。
距離は約百メートルほど先。
最初は、白いTシャツを着た人が歩いているのかと思いました。
ハンカチサイズではなく、遠目にも人が着る服の大きさには見えました。あるいはワンピースかもしれません。ゆらゆらと不規則に揺れながら、こちらに近づいてきます。
次第に、「白い四角い布」が風に揺れるカーテンのような不思議な動きをしているのがわかりました。人の体の動きに合わせて揺れるのではなく、ただそこに白い布が漂いながらこちらにくる感じなのです。
ようく見ると、ほぼ正方形の白い布切れの上部には頭と思しきものは何もなく、布の横からは細い手のようなものが出ていて、下からも細い足のような、棒きれのようなものが見えるのです。
その「手と足」をバラバラに動かしながら、何か暴れるような様子で、「それ」はくねくねとこちらに向かってきている。
わたしは今、何を見ているのだろう?
わたしの横で、ついてきた二匹の猫が立ち止まって前方を見つめていました。
こういうときも、わたしはあまり恐怖を感じません。見えているものをただ受け入れるだけ。
わけがわからないけど、見ない方がいいし離れたほうがいい。そう感じながら、森の中で熊の姿を見つけた人のようにゆっくりと、視線をそらしながら、次の角を右に曲がりました。
その瞬間、固まっていた猫が曲がり角を曲がって走りだしたのです。
三毛猫と、キジ三毛。どちらも美猫で、目が大きい。わたしを通り過ぎて、目を光らせて振り向きながら前を行きます。
「白い何か」がついてきているのか否か、気にはなりつつ、振り向いてはいけない気がして、そのまま何も考えず、ふらつく身体を前に進めました。
次の角をまた右に曲がる瞬間、決心して振り向きました。
何も、ついてきてはいない。
電柱につかまりながら夜空を見上げると、むら雲に半月が出入りして、あたりの雲を虹色に染めています。
……怖がることはない。いつもの夜だ。
この世にはいろんなものがいる、深夜零時過ぎに出歩けば、月にも星にも猫にも狸にも白い布にも出会う、だから夜の散歩は面白い。それでいい。
その夜は猫二匹だけを連れて夜の散歩は終わりました。
この「変なもの」についての話は、なぜか夫にする気にもなれず、黙っていました。
そしてそれから数日後。わたしはそれまでで一番異様なものに出逢うことになるのです。
その夜も、「猫靴」を履いて、静かに門を開けて外に出ました。
時刻はやはり、午前零時。
いつもより、目眩が酷い気がする。脳みそのない空っぽの頭の中に鉄の玉が一個入っていて、動くたびに頭の中をゴロンゴロンする感じ。右足を踏めば右にゴロン、左足を踏めば左にゴロン。だからやっぱり、右に左に倒れないようにするために、早足で歩くしかない。
今日は猫が誰もついて来ません。こんな夜は珍しく、一人ぼっちで歩く深夜の道は寂しい。
ふと見ると、前方の、あの「白い何か」が現れたちょうどその辺りに、こちらに向かってくる人影が見えました。
ずいぶんと背が低い。こんな時間に、子どもが一人で?
……それにしても、シルエットが妙すぎる。
頭が妙に大きく、その下の体は異様に細長い。
左右に体を揺らしながら、こちらに確実に近づいてくるそれは、いうならば、
そう、「こけし」なのです。
だって、体が「棒」なんだもの。
手も足も見えない。
近づくにつれ、その異様なシルエットがはっきりしてきました。
わたしは確信しました。
あれは、……人間じゃない。
ああまた、変なものに出逢ってしまった……
「それ」は、街灯の光に照らされても、とにかく「真っ黒」。
子どもサイズの、漆黒のこけしにしか見えません。
幼稚園の子が描いた棒人間のようなものが、それも手足のない異様に頭の大きな棒人間が、よたよたと近づいてきている……
これはあの「白い布ニンゲン」が進化でもしたものだろうか。
いや、あれとは違う。何か、とても邪悪な感じがする。
そしてわたしの傍には猫がいない。
わたしははっきりとした恐怖を覚え、あの時曲がった角を、早足で右に曲がりました。
逃げなければ。あれから、逃げなければ。
カツ、カツ、カツ。「猫靴」の立てる音が恨めしい。いつもはこの音で猫や狸が現れるのに、あの黒いこけしを呼び寄せてしまう気がするのです。
一体なんで、わたしはこうヘンなものを見てしまうのだろう。今はどうか、ついてこないでほしい。路上には誰の姿も見えず、猫も狸もいない。わたしは一人ぼっちだ。
キュ、キュ。キュ、キュ。
かすかに木のきしむような音がついてきます。道路標識につかまりながら振り向くと、なんと、「それ」は角を曲がって、急ぎ気味に体を揺らしながらわたしの後をついてきているのです。
追われている!
追いつかれたら、わたしはどうなる?
走ることは目眩のせいでできないので、わたしは競歩の選手のように、左右どちらかの足が地面についた状態のまますり足で懸命に進みました。
次の角をさらに右に曲がる。どうかもうついてこないでと祈りながら。
そのとき、
「ニャア―オオオ」
背後から聞きなれた声がしました。あの特徴的な声は多分、お散歩友だちの、ミーちゃん。黒い、体の小さな猫だ。敏捷で、好奇心旺盛な子。その子が、威嚇の声を出している。
助けて、ミーちゃん!
電柱につかまりながら振り向くと、あのこけしはさらに角を曲がってわたしに迫ってきていました。その足元でミーちゃんが唸っているのです。
ウアーオオオ。ワアーオオオ。
背中を丸くして、尻尾を立てて。
こけしはそのまま立ち止まり、とまどっているように見えました。猫が苦手? そうであってほしい。
次の瞬間、ミーちゃんはこけしに飛びかかりました。
こけしはあっという間にバランスを崩し、大きな頭から地面に倒れました。
音はしません。
そのまま地面にへばりつくこけしの形をした黒いものは、左右に体を揺らしながら、小さな声を出し始めました。
オコ…シテ…… オコシテ……
猫はクンクンと臭いをかぎながら、前足でちょいちょいちょっかいを出しています。
手も足もなくさらにあの大きな頭なら、到底起きられないでしょう。
わたしの頭の上には、青白い月。目の前には、ミーちゃん。いつものわたしの世界。
ここは、わたしの世界だ。闖入者は許さない。
不思議な勇気が湧いてきて、こんな異様なシチュエイションにもかかわらず、わたしはもう起きることのできそうにない「それ」にゆっくりと近づいてみました。
我ながら蛮勇だと思うけれど、自分が見ているものが何なのか、はっきりさせたくて。
近づくにつれ、「それ」は立体感を失い、道路に溶け込むように平面的になっていったのです。
ミーちゃんは「それ」の上を行ったり来たりしながら、相変わらず匂いをかいでいます。
見下ろせる距離まで近づいた時、すでにあやかしの黒こけしはただの路上の黒いシミとなり、声もたてず動きもしませんでした。
オコシテ…… オコシテ……
ただ一度耳にしたその子供のような声を思い出し、わたしはしゃがんで黒いシミに話し掛けてみました。
「起きたいの?」
そう言ってシミの頭部に手を伸ばした瞬間。
指の先に吸い込まれるように、黒いシミがすうっと消えていったのです。小さくなる。全体が、わたしの指に吸われて小さくなる。消えてゆく……
そう思ったとたん、しゃがんだ姿勢からわたしはどん、と前のめりに倒れました。
ものすごい重力が頭にかかり、全身が頭に引っ張られて地面に引き寄せられ、あ? と思ったそのときから、もう体は動きませんでした。
にゃあああお。
ミーちゃんの声は聞こえるけれど、視線も動かせない。指先一つ動かない。
倒れたこけしが動けないように、わたしもまた動けない……というより、
わたしは、「あれ」に成り代わったのじゃないだろうか。
身体を乗っ取られた?
そう思いました。
戻って、正体を確かめようなんて思ったからだ。
あまつさえ、助けようなどと思ってその残像に触れてしまったからだ。
わたしの頭の中の「鉄のボール」は今や、巨大な鉄の黒い塊となって、それ自体の重力で地面に貼りついています。
今誰かがここを通ったら、わたしは何に見えるのだろう。
地面に倒れた、黒いこけしだろうか。
頬に髭がふれる感触がある。小さな息がかかる。ミーちゃんがのぞき込んでいるのがわかります。
「起こして…… 助けて……」
呟くように言いながら、わたしは自分の存在が足下から消えていくのを感じていました。
ものすごい恐怖感とともに。
人として生まれればいつかは死ぬと覚悟はしていたけれど、こんな消え方は嫌だ!
誰か起こして、誰かわたしを地面から剥がして……
無理やり首を動かそうとしたそのとき、「キュ」と小さな音がしました。
鳴子こけし……
なぜかその単語が浮かんだのを最後に、わたしは意識を失いました。
次に目を開けたとき、目に映ったのは白い天井でした。
今が何時で自分がだれで、どこにいるのか何もわからず、頭の中は、からっぽ。
だんだんと、意識がはっきりしてくるにつれ
ここが自宅の居間で、自分が横になっているのはソファで、カーテンの隙間から射す陽ざしで、とにかく夜は明けているということが分かってきたのです。
ええと……
わたしは首を上げて自分の服を見ました。上下ともに灰色の、ルームウェア。
夜の散歩に着ていくときの服ではない……
「目が覚めた? おはよう」
廊下から夫が顔を覗けながら声をかけてきました。
わたしは頭をふらふらさせながら、聞いてみました。
「今、何時?」
「朝の八時だよ」
「今日は、何曜?」
「土曜日。なに、大丈夫?」
わたしが寝室ではなく居間のソファーで寝るのは日常のことです。ひどい目眩のせいで階段がダメになってからずっと一階のソファがわたしの寝室になっていました。
問題は……
わたしは昨夜、深夜の散歩をしたのだろうか?
とたんに、昨夜の、いや、あるいは異界のあの情景が浮かんできました。
わたしは黒いこけしに追われて、こけしに体を乗っ取られて……
「わたし、昨日、深夜の散歩をしたのかな。自分でもよく思い出せない」
当時とうに寝ていた夫に尋ねても無駄と知りながら、わたしは聞いてみました。
「行ってないと思うよ。昨夜は小雨模様で、これじゃ散歩は無理ね、と言っていたもの」
あ、そうだ。出かけようと思ったけど雨がやまないので、諦めたんだった。
だとすると……
夢? あの全部が夢?
なんと、手の込んだ夢を見たものだろう。
「目眩の方は大丈夫? 起き上がれる?」
「うん」
ソファから足を床に降ろして、わたしは呟きました。
「なんか、……すごく変な夢見ちゃった」
「そういえばずいぶんうなされてたよ。どんな夢?」
「こけしに追いかけられて、こけしになる夢」
「へえ?」
起き上がった途端、頭の重みで体が前のめりになりかけ、わたしは思わず右足を前に踏み出しました。
そうだ。ここのところ、頭の中の鉄の玉がどんどん重くなっていくように感じていた。
立っても、歩いても、頭の重さで地面に足がめり込んでいくように感じる。少しでも首をかしげると、頭の重さで首が痛い。傾げた方向に転びそうになる。まるで……
まるで、自分は、頭の大きなこけしになったようだと。
そう感じていたんだ。
だから、あんな夢を……
その後、目眩に効くという漢方薬を飲み、林檎酢につけたキャベツと青汁とヨーグルトとゆで卵、という簡単な朝食をとりながら、わたしは夫にさりげなく話しかけました。
「ねえ。何年か前、銀山温泉に行ったよね。川沿いに立つ旅館群が途絶えたあたりに、こけし屋さんがあったわよね」
「ああ、あったね、うん」
「そこで、先端にこけしのついた耳かきを買ったのよね」
「今はぼくの愛用品だ」
「あそこで思ったの。なんでこけしってみんなあんなに頭が大きいのかな。身体もただの棒でしょ。おもちゃというより、呪詛的な何かを感じない? あれ、子どものおもちゃなの? 本来何のためのもの?」
「いや、おもちゃでしょ。子どもの健康祈願とか魔除けとか、むしろそういう意味合いがあったと思うけど。なんでこけしの話がしたいの?」
「わたし、だって、こけしになりそうだから」
「ああ、夢の話?」
「そう。どんどん頭が大きくなって、そのうち歩けなくなりそう。身体の重心が下にあるんじゃなくて、てっぺんにあってさらに二足歩行って、人間てどうしてこう不安定にできてるんだろうって。おまけにどんどん頭が肥大していったらどうなると思う?」
「そりゃ、鳴子こけしになるしかないな」
鳴子こけし。夢の中で浮かんだ言葉。わたしはどきっとしました。
「なんで鳴子こけし限定なの」
「こけしにはいろんな種類があるけど、まあ有名な奴だから。それに宮城のこけしは、やたら頭の大きいタイプが多いし」
「鳴子こけしって、どうして鳴子って名前なのかな」
「鳴子地方で売られてるから。土地の名前だよ。もっとも」
コーヒーをひと口飲んで、夫は続けました。
「首をもって回すと、キュ、って鳴るのも特徴だけどね」
『ボーっと生きてんじゃねえよ!』
テレビから怒鳴られて画面を見ると、頭の大きなチコちゃんが真っ赤な顔をして怒っておりました。
ボーっと生きててすいません。
チコちゃん、そんなに頭が大きくて不自由してない?
わたしいつも、現実と夢の境を歩いてる気分なの。いやなことがあると、これは夢だと思い込んでそっちを見ようとしない。そうでないと、自分でいられない。あの夜の散歩は、むしろその橋渡しのために必要なのかもしれないな……
わたしはまだ人間だろうか。そっと、首をかしげてみました。
キュッ。
首がかすかに鳴ったような気がしたのでした。