いつまで夏の名残が続くのかと思っていたらこれもいきなりの肌寒さ。

また目眩が酷くなるわー、勘弁して。

 

 

で、今回のブログは糞ほど長くなります。

こんなの読み終えるのはよほどの変態か暇人だと思ってます。変態さんいらっしゃい。

 

さてさて最近思うこと。

時代や世相が移り変わるのは、当たり前だけど

わたくし個人としてですね、どうも日本人はいけ好かない方向に向かっていっている気がしてならないのです。

と前置きして、いきなり婆臭い昔話が始まるよ。

 

まずは昭和33年生まれの語る路上の風景でございます。

 

わたしが子どもの頃、路上には、

大人の監視を伴わない「子どもの群れ」があり、

地面にろうせきで絵をかき、石けりに縄跳び木登りにスパイごっこ、隣町への冒険(この軍団には上は小学校6年から下は幼稚園児まで混ざり込んで毎日メンバーが変わったりしてました)そんな野良子供がわらわらいましたな。

子どもは外で遊べ!と母親に箒で掃き出されていた時代の話です。

言っておきますが誘拐殺人事件もしょっちゅう起きており、今より子供が安全で治安が良かったかというとそーんなことはありませんでしたよ。

わたし自身、小学生時代にライトバンで二回誘拐されかかっています。

 

で、今はめっきり見ない光景ですが、犬も猫の普通に路上でうろうろしていました。

玄関先に鎖でつないで飼われている「番犬」もいましたが、隣の家では犬の「デンベ」を「野良飼い」してたので、よくうちの庭にはいってきては母のサンダルを咥えて持ち帰ったり、下校するわたしのお出迎えをしてくれて飛びついて顔を舐めてくれたりしたもんです。こういう家も、普通にありました。

母のサンダルをグチャグチャにして破壊するたび、お隣の御主人が頭を下げて菓子折りをもって謝罪に来たりしてました。でもデンベは相変わらず外飼い。そこは変わりません。

母はサンダルをベランダに出さないようにするしかありませんでした。

 

勿論狂暴なわんこもいて登下校の小学生を追い回して困らせていたので、よく「犬捕り」の車が来ていました。丸い金属の輪っかのついた捕獲機を手に昆虫採集のように野良犬を引きずって集めて車に放り込んでたものです。

そんな時代、大人は路上と言わず列車の中と言わず自由にタバコを吸い、ホームの煙草入れはいつも半火事状態で煙ブスブス。都心の駅ではホームに普通に「痰ツボ」が置かれ、おっさん達はよくそこに向かって勢いよく「ガーッペッ」をしてました。

まだ子供が起きているような時間にオッパイが普通に映るような番組をしていたり、電柱やそこらの壁に、プロレス興行やストリップショーのポスターが貼ってあったり。

白黒ショーってなんだろう、と幼いわたしはその怪しいポスターを眺めながら帰っていました。

小学校の出口では不思議な手品の道具やハーモニカを売るおじさんが勝手に店を広げていたり。駅前ではスプレーで色付けしたカラーひよこを売っていたり。

近くの公園の池には色とりどりのコイやフナが泳いでいて、餌の麩は売店で売っていました。水鳥も白鳥も、先を争って魚たちと麩の取り合いをしていたものです。

幼い赤子を抱えたお母さんたちは、公園のベンチでベロンとお乳を出して授乳していました。そんな時代でありました。

 

 

そして時は移り、今。

あれほど路上に群れていた子どもたちの群れは消え失せ、すっかり住宅街は静かになりました。

親を伴わずに公園遊びしていれば、誘拐されてもかまわないと思っている放置親とされ、前約束もなく友達の家を訪ねて回るのはご法度。親が仕事中の子供は玄関に鍵かけてゲームにアニメ。それをとがめられる状況ではなくなりました。

けれど逆に、数少ない児童公園やあるいは保育園の「子どもの騒音」問題がよく取り上げられています。

騒音に耐えられないと市に訴え出るお年寄りたちは、あの、一日中家の外で子どもの遊ぶ声が響いていた時代に生きていなかったのか、あるいは忘れてしまったのかと、不思議になります。

舗装されていない、すぐ水たまりのできる住宅街の道路は、水たまりができればそこに飛び込んでキャーキャーやる子供の遊び場でもありましたから。

 

それと、どうにも最近「妊婦、赤ちゃん連れ、幼児連れ」という存在に、世間が狭量になっている気がしてなりません。

昔は周囲に乳児幼児がごろごろいたので、子育て中のお母さんはお婆ちゃん世代の人に良く声をかけられ、相談に乗られたリ慰められたり、地域で温かく子どもが見守られていた気がします。

それが今、赤ちゃんというものは

たとえば「車の運転免許を持つこと」ぐらい、趣味の選択のレベルにいれられている感じがします。

ぶっちゃけいいますが、日本人が生まれなくなれば日本は滅びるのですがね。

イイんですわたしは人間が嫌いだから世界中の人間が滅びようと。でも自称愛国者様はこれをどのように感じているんでしょう?

「育てる選択をした人間が得手勝手に生んだものであり、だからと言って周囲に迷惑をかけることは許されない。赤ン坊が周囲に迷惑とならぬよう親は最大限気を付けるべき」という空気は、喜ばしいものでしょうか。

「産まない選択をした」と有名人女性が言えば、勇気をもらった、と多くの女性から称賛されるけれど、産む選択をした宣言などしようものならそれがどうした、それがそんなに偉いのか、と叩かれるだけという時代。

腹が突き出た状態で電車に乗れば、席譲ってもらって当たり前と「そっくり返っている」「妊婦様」と揶揄される時代。

 

路上から消えたのは勿論子供の群れだけではありません。

犬も猫も、しっかり室内飼いをするように、がマナーとなり、野良は虐待されたり保健所に持ち込まれたりして、都会に住んでいると見かける確率は昔の十分の一ぐらいになった気がします。地域差もあるでしょうが。

愛猫家は言います。外に生きるのは不幸な猫だ、不幸な命を増やすなと。

かくて、家屋内で飼われる猫だけが「幸福」という図式になりました。

 

 

アフリカのサバンナでそれぞれの生を生きている動物たちより、動物園で一生を送る動物たちのほうが安全で幸福ってことなんでしょうか。

絶滅が危惧される固有種のイリオモテヤマネコはしょっちゅう車にはねられて死んでますが、なんで片っ端から保護して

ヤマネコドームでも作って屋内飼いして「幸せな猫」にしてあげないのだろう。

都会で生きる野良の避妊去勢をするのは「不幸な命を増やさないため」だそうだけど

森で生き、仲間同士とけんかし、車にはねられ、けがや病気をしても誰にも治してもらえず、餌が取れなければ飢えて死ぬだけ。なイリオモテヤマネコも「不幸な命」じゃないの?

 

ぽっぽっぽはとぽっぽ、豆が欲しいかそらやるぞ、とか

出てこい出てこい池の鯉、投げた焼き麩が見えたら来い、と児童唱歌で歌われた時代は終わり、

鳩も鯉も「餌やり」はマナーとして禁止になりました。

そして、国や地方自治体がやたら外来生物駆除に躍起になり始めた。それを芯から感じたのが、井の頭公園の「かいぼり」です。

「井の頭公園をもとの済んだ池に戻そう!」「甦れ、井の頭池!」のスローガンのもとに

池の水は抜かれ、それまで人に餌をもらっていた鮮やかなコイやフナやアカミミガメは「外来種」として一匹残らず駆除され豚の餌にされました。

やがて池に水が戻った時、そこには生き物の姿は全くない、真っ暗な池になっていました。

池ができたころからこの公園にいた在来種の小型の魚やエビの一種を増やすためだと公園側は言いますが、何年たっても魚の姿が全く見られないのは同じです。池の水も生物の気配なくよどんだまま、どういう訳か水草が異常に繁茂し始めました。

水が透き通るようになると聞いていたけど、もうどんより緑色の池でしかない。

子どものころに見たあの池とは全く違う、暗い静かな池になってしまった。

 

 

あの命たちは長年ここにあったけど、誰が迷惑をこうむっていたのだろう。

庭園やほかの公園で大事にされている鯉もフナもいるのに、

ここで生まれここで育った鯉たちは、なんでここに生きていてはいけないことになってしまったのか。

食料としていただく肉も魚も尊い命、だから頂きますと言って手を合わせる。

命は大きくても小さくても人には作り出せない尊いもの、と教えられてきました。

ではあのコイやフナたちの命にも、手を合わせるべきではなかったのか。

 

そして今や、痰ツボなし、ゴミ箱なし、煙草禁止、街は一見どんどん静かで清潔になっていきます。

よいことではありましょう。わたしは煙草の煙は大嫌いだし、痰ツボなんて悪夢でした。

でも、同時に子どもたちの数は激減し、街は静かになり、ますます「子連れ」への視線は厳しくなっている気がします。

お前らが勝手に生んだんだろう、他人に迷惑かけるなと。

 

たまに海外に行くと、車椅子の人や赤ちゃんを抱っこした母親に対して、街の人々が笑顔をむけ、我も我もと席を譲る光景が、何か異次元のように感じられます。皆、変態か?というぐらい、とくに赤ちゃんや子どもが好き。

それにお年寄りにも優しい。ロンドンのよどんだ地下鉄で、ぶつぶつ不穏な独り言を言っている白目の赤く染まった危ない青年も、赤子連れの母親やお年寄りを見ると無言で席を譲ります。

日本人にはそういうDNAがないのでしょうか。

いや、昭和の昔、悪ガキを怒鳴りつけている爺さんもいれば、赤ちゃんの周りに集まるおばあちゃんたちもいた。

今は「ほっといてください」「個人は個人」「迷惑だけはかけないでね」という、冷めた空気だけを感じるのです。

こういう空気、田舎臭いお節介や地域のお付き合いが何より苦手な私にはありがたいのですが……

 

ベクトルとして、ひとは、日本人はどっちへ向かおうとしているのか、と時々感じるのです。

路上に子どもの群れのない、鬱陶しい動物の姿がない、公園にフナも鯉もいない、清潔で静かで人間にだけ住みやすい世界?

確かにそっちの方ににじり寄ってきましたね。

なのに、肝心の出生率が先進国の中でも激減し続けているのは、なぜなのか。

日本よりよほど生涯賃金も少なく医療機関も充実していない発展途上国や政情不安定な国の方が出生率が多いところを見ると、「こんな政府の元で子どもが産めるか」という日本人の理屈に整合性をあまり感じないのです。

 

人口なんて今はまだ多すぎるんだ、五千万人ぐらいでちょうどいい、という意見をよく見ますが、どうしてその数でストップすると思っているんでしょう。

出生率がこのままなら、日本人口は五百年後には、計算上13万人になると言われています。

その時日本は果たして「文明国」と言える体を成しているのか。

多分近隣アジアの人々が移住してきて国を変えているでしょう。それはもう、日本とは呼べません。

自分たちで選んだという意識のないままに、子ども嫌い妊婦嫌いの日本人は「爆撃のない破滅」に静かに向かっている。そして現在の政治家たちには、その危機感がほとんど感じられません。

一般市民も、北朝鮮が怖い韓国が中国が怖い、外国人の流入を許すなという危機感は持っているようですが、自分たちでできる唯一の「日本人絶滅防止」に向けての努力には全然乗り気でないようです。

Youtubeなどではしょっちゅう「世界からうらやましがられる美しい国JAPAN!」と日本のいいとこどり画像がアップされますが、

少子化が論じられ始めると急に「こんな国で子どもが産めるか」と論調が一気に変わります。

美しい国? こんな国? どっちなんでしょうね。

こんな国で、とブツブツ言ってる人たちは、最近出生率も上がってきたし子持ちには手厚いけど消費税も物価もくっそ高い北欧のような国々に行けば安心して生むのでしょうか。

 

ともあれ、600年先700年先、日本人が完全に絶滅種になり日本という国自体が崩壊に向かっても、月はいつものように静かに夜の空にかかり、静かな町を照らし出しているでしょう。

その下の世界で、鳴りを潜めていた動物たちは、再び自分たちの世界を取り戻しているでしょうか。

そうでもいい、いやむしろそうであればいい、と考える自分が、自分の中には確かにあるのも、事実なのです。

わたしは来世は、ゴキブリに生まれ変わりたい。そして「生きているのが罪だ」と一瞬で叩き殺されたい。

或はセミや蝶にうまれ、夏の昆虫採集で標本箱にピンでとめられたい。

それがダメなら家畜に生まれ、屠畜され逆さになって血を抜かれるか、

あるいは生きたまま皮をはがれるウサギやヤギに生まれ変わって、悲鳴をあげながら死にたい。

この生涯殺めた命の数だけ。

いや望まなくても順番にそうなるのだろうと、今はそう信じていますが。

死に際に、今選べますよと天から声が聞こえたら、ハエトリグモでもいいから、とにかく人間だけは勘弁して。

そう答えようと思っています。