人はどうして人を殺しちゃいけないの。
こう子供に聞かれたら何と答えますか。
という問いが、昔あった。
答えとしては例えば、あなたはいきなり人に理由もなく殺されたらいやでしょ、自分がされて嫌なことはしてはいけないの。
というものや、
命は一つ一つ神様から頂いた尊いもので、それを粗末にするのは理由に関わらず罪なことだから。
とまあいろいろ論議されていましたが、そんなやりとりがむなしく思えるような今日この頃。
毎日毎日、人がゴミのように殺されている映像が飛び込んでくるテレビを、わたしはもう見られなくなりました。
同朋を殺され怒りに燃え、懸命に支援を訴えるゼレンスキーさん、ごめんなさい。
もう辛いんです。今現実のこととして、人が人の命をゴミのように扱い、建物ごと吹っ飛ばし焼き尽くしている現実が。
イデオロギーだけで、尊い命が尊さのかけらも認めてもらえず潰されていく現実が。
それを平気で命令する上層の人間、「ウクライナ国内で動くものを見たら民間人でも犬でも猫でも撃て」と命令され
人の心を捨ててそれに従う兵隊たち。その存在が。
わたしって性善説を信じていたのかなあ。
なんだかんだ言って、人は縁のない他人の不幸を望まないものだと思っていた。
無辜の人々が殺されていく様を見れば心を痛めるものだと思っていた。
でも、町は破壊されている。
路上で人が死んで転がっている。
戦車に追われ、車から出て「子どもがいるんだ」と両手をあげて命乞いする男性が撃ち殺されてる。
ネットの世界は、惨い現実をこれでもかと動画にして見せつけてくる。
知りたくないし信じたくないから、テレビを切る。ネットを切る。
それでも、考えてしまう。
今地下で怯えている人々、飢えた子どもたち、置きざりにされおもちゃのように撃ち殺されるペットたち。
ニンゲンって、やっぱり、こういうことができるんだ。
何度歴史に学んでも、反省しても、繰り返すんだ。殺人は「いけないこと」だというのは平和な世の中に限った幻想なんだ。
この年になっても、それでも、耐えられない。
どうしても、人の良心を信じたい。だから、テレビが見られない。
スティングの「ラシアンズ」という歌がある。
YouTubeで聞けるので聞いてみてください。
このところずっと、メロディと歌詞が頭の中をBGMのように流れている。
その思いは、怒りは悲しみは、沁み込むように私と同調する。
こんな現実の中でも、信じさせてください。そして、言わせてください。
ひとは、ひとを、殺してはいけないと。
人は元来、人を殺すことを、喜ぶようには生まれついていないのだと。
そうでないなら神様、今からでも、人をそのように作り直してください。
お願い。