「空母いぶき」は水曜に見ます。玉木君待っててねー。

しかし世間てものが、ホントに物事を色付きでしか見なくなって極論が増えたと感じることが多い。

まあ、詳しくは映画の感想で書きますけど。

 

さて今日の話題は、いきなりですが

寝屋川の中一男女殺害の事件についてです。

遺族が、心境を発表しました。

 

「なぜわが子が…… 納得いかない」

 

この事件当時、そりゃ深夜早朝に徘徊させるような家庭と親が全部悪いんじゃないか、

ウロウロしてるできの悪い子がみんな悪いんじゃないかってそりゃあ酷い叩き方でした。

でもね。

犯人との遭遇は早朝だったわけです。

何なら部活での早朝の出会いだって可能です。

それでも親は悪く言われたか?結果論によって。

本当に叩いてる人のだれもが、陽が落ちてから夜が明けるまで外出したことが一度もないんでしょうか。

本当に一度も?

例えば中島らもが、柳美里が、野坂昭如が西原理恵子が大槻ケンヂが

青春時代を語る時、

家から抜け出して深夜の町を疾走するシーンはどれにもありました。

何か起きても仕方がないと言えばそれまで、

しかし旅行帰りに都会の深夜の町を歩けば、驚くほど若い塾帰りの子が、学生が、中年がお年寄りが深夜の町をウロウロしてます。

 

彼らはオヤジ狩りにあっても

「それがわかっていて外で酒を飲むからだ、自業自得殺されても文句は言えない」なんて世間には叩かれない。

執筆中に作家が飲み屋で一杯やって酔っ払いと喧嘩しても大した記事にならない。

 

思春期の子どもが。その親ばかりが、

犯人そっちのけで、ぶっ叩かれます。

 

「守ってあげなよ、かわいそうに」ではなく

「ざまあみろ」なノリで。

「命を奪われても仕方のない愚かなコドモだったんだよ」なノリで。

 

それは例えば冬山から滑落した登山家が

「自業自得」「山を舐めたからだ」「捜索隊が可哀想」「山になんか登るから落ちるんだ」と叩かれるのと同じ。

 

同じく山に登って無時に降りた人は叩かれません。

つまり、結果論だから。

 

夜の街を千鳥足で歩いてオヤジ狩りにあうもあわないも、運です。

しかし、ひとは「運」を抜きにして、結果だけで叩く。

 

中島らもも柳美里も野坂昭如も西原理恵子も大槻ケンヂも

親が叩かれなかったのは

「運がよかったから」

その本が売れるのは

「その青春時代に、共感できるところが多いから

 

でも、失敗して闇に落ちた子供と親は

無頼派への共感はおいといてばっしばっしと叩くお世間様。

嗚呼。

何とも不思議なのであります。