行きつけの古いタイプの喫茶店(カフェじゃなくて喫茶店です。利用者の平均年齢55歳)にはいつもビッグコミックオリジナルがあって、いつも行くとなんとなく読んでしまう。
時流と全く関係ない絵柄とストーリー、なじみの店に行くと出てくる昔ながらのメニューみたいな顏ブレのマンガが、結構好き。
噺家、俳句サークル、プロゴルフ、少年野球、深夜食堂(タイトルそのまま)、。宅配風俗、看護助手。ストーリーの舞台のバリエーションも面白い。社会の表だったり裏だったり、それぞれの場で生きがいと出会いを求める人々の「等身大の話」が、この年齢になると結構、沁みるんです。
でもさー。その中で沁みる前にはじいちゃうのが、弘兼憲史御大の「黄昏流星群」なんだよね。
最初にいっておくけどこの人のマンガは面白いんですよ。まずストーリーテラーとしての力量が半端ない。どんな設定でもグイグイ読ませる、わかりにくいところが全くない、主人公の心情にすぐにでも寄り添えて先が読めない。落としどころも見事。そしてたいがいの「冒険できない年齢」の男性にほんのり夢を見させてもくれる。
ええ、言っとくけど「男性」です。
だって、彼のストーリーで夢を見てるのは大抵、ある一定の「男」なんだもん。いや、そこに設定してるとしか思えない。
平平凡凡な生活。道を外さず生きて来たがつまらない、という思い。愛情のかけらも持てない配偶者、気遣いも思いやりもない冷たい妻、オヤジをATMとしか思ってない娘。これが大抵の場合出てくるんですよね。そして、一度きりの人生冒険したいという男の夢に十分な言い訳が揃う。
いいけども、この設定、何度出て来たかわからないんですよ。思えばヒットシリーズ、島耕作の家もそうだった。奥さんが思いやりがなくて冷たい、子どもが生意気。
そして島さんにとって家庭は足かせでしかない。だからもとにかく当たるを幸い、転がしまくる!そこに、倫理にもとるという批判やブレーキは全く存在しません。
というか、島耕作自身も家庭を大事にしようとかやり直そうとかせめて子どもは幸せにしようとかはなっから思ってないんだよね。そんなに自由が一番なら、なぜ結婚したの?
そして、彼のストーリーにおいて、家庭を大事にしようと務める妻とか夫に浮気しないでほしいと思ってる妻は
「ただのつまんない存在」としてしか描かれない。
そりゃつまんないですよ、羽根伸ばしたい方にとってはただの「足枷」だもん。
でも、ここまで「結婚」あるいは「夫婦」というものを、意味がなくつまらなく乾いている不毛なもの、と描かれると、それはそれで極端だと感じるのよね。だって、家庭内の愛と家庭外の愛を比較するまでもなく、彼にとって本当の愛は「家庭の外」にしか存在しないことになってるから。
なんでそこまで極端に、いびつになっちゃったんだろう。徹底して家庭とか夫婦というものを否定するんだろう。
世の中には、うまくいっている相思相愛の夫婦とか、思いやりのある妻とか、あるいは家庭を大事にしたい夫もいるはず。
たとえば、夫は妻を愛していて仕事も家庭も大事にしたいのに、外で恋愛ばかりしている妻に失望し、取り戻したいとあがく、という設定もあるはず。
でもそういうのぜええったい出て来ないんですよね。
何故なら多分、そこに本物の「ロマン」なんてないことになってるから。
これだけ長いこと「大人の恋愛」を描いてきて、家庭内にいて家庭を大事にしようとしている男あるいは女という存在を「うっとおしくて生産性がない」としか描写せず、自由になって外に出ないと愛は待っていない、だけどはぐくみたいとか守りたいとか女性側が思うと即、愛は賞味期限切れになって立ち腐れてゆく。と主張し続ける弘兼氏は、愛の伝道師のように見えて、実はかなーり病んでいるんじゃないか、と最近思うんです。
(この価値観なのに紆余曲折経て二人はゴールイン、で終わる話もけっこうある。そこから先は腐れてゆくだけなんじゃないのかと妙に心配になるんだけど……)
まあ、結婚当時からオリジナル読んできたからなー、たくさんのパターンみすぎたのかな。
しかしさらに病み切ってる、と思うのが、ジョージ秋山氏。
ここしばらくの話はもう、ただの独り言にしか見えない。
もうさ、主人公さんがたまに出てくる背景にしかなってない浮浪雲は終了でいいと思うんですけどね。