いやだいやだといいながら飛行機に13時間閉じ込められ、恐怖にがっちがちになりながらイタリアまで行った記憶がまだ新しいのに、マレーシア周辺での飛行機遭難事故をまた聞くことになりました。
その前の件はまだ行方不明のままだけど、今回は残骸とご遺体が見つかったそうで、どうやら墜落は確定のようです……

飛行機がどれほど安全な乗り物か調べてから乗れば安心できる、と聞いたことがあるけれど、
あまりにたてつづけに(年内で三件?)似たような事故が起きてしまっては、もう恐怖は人々の心からも当分は消えないでしょう。
船だってめったに沈まない、飛行機だって落ちるのはまれ。
でも落ちたらまず助からない……

この不安のロシアンルーレットを思えば、「やっぱり一生のらないっ!」になる前に行って帰って、夫のためにはよかったのではと思ってます。
彼の念願だったのだもの。
その後甲状腺に腫瘍が見つかってひやひやしたり(良性でした!)白内障の手術して両目ともつくりものの水晶体になったのがちと残念だったりもしたけど、一時は背骨から折れそうだった首と肩の痛みもすっかりなくなって、とにかくひと安心なのです。

新年を迎えるにあたって、「おめでとう!」と各国の人々が言い合うのは、
一日が夜で締めくくられ新しい朝が始まることでこころを切り替えるように、
長い苦しい時間も、とにかく一区切りつけて新しい次のステージとして迎えることで、新しい夜明けを期待しているからじゃないかなあ。

最近なにかとネットでは、女性や貧しい母子家庭の子供や障碍者、生保受給者(ほんとに貧しい人たち)を「甘えるな」「自己責任」と上からたたく風潮があるようだけど、
世界のあちこちで宗教によって起きる戦争や悲劇を見ていても、人間って千年たって文明をどれだけ手に入れても、ほんとの意味での成長ってできないのかなと思う。

成長……
自分を思い、他人を思い、その幸せに心を寄せ不幸に心を寄せ、苦しみを共に苦しみ、幸せを祝福すること。できる心。
簡単なようでいてほんとに難しい。

あるいは「他人」じゃなくて、「自分以外の命」でもいい。
神と言う名の大自然に作られた命たち。魂ある命たち。

最近、大島弓子先生の「グーグーだって猫である」の続きにあたる「キャットニップ」を買いました。いつの間にか出ていたんですね。
主役のグーグーは死んでしまったけれど、大島さんの日常はかわらずに、小さく弱く言葉のない命たちとともにありました。
昔から、彼女の漫画は、やさしく簡素な線と真実をすっと掬い取る言葉で、詩のように深く太陽のようにやさしく、わたしたちに命のありかを教えてくれていた気がする。
物語はもう手放してしまったようだけど、彼女の魂は相変わらず、そのきらめくたからを、命と命と命の上に平等に降り注いでいるのです。わたしにとっては、そうなのです。

年賀状の整理をしていたら、はるか昔に大島先生ご自身から頂いた年賀状が出てきました。直筆です。ちょっとだけアシスタントをしたことがあるのです。綿の国星シリーズのころでした。
ニュースを一巡して、消耗して希望を失って、でも彼女のエッセイ漫画を読んで、復活する。
昔から私は同じです。ありがとうございます、大島先生。
彼女は「ねこ好きオバサン」ではなく、大きな意味で、「愛の人」だと思っています。
対象は、言葉を持たない、潔のいい、その日限りの命でも精一杯生きる命たち。
世界中が愛の人で満たされる日が、どうかいつか来ますように。

さて、昔っから、うちには火鉢がありました。
火鉢とトルコストーブ。
火鉢に渡した網の上で、岡山の田舎から送られた手作りの干し柿を焼き、かきもちをかりかりになるまで焼き、フーフーして食べる。
トルコストーブの丸窓には青い炎。
そしてストーブの上には、豆の入った大きなお鍋がくつくつと甘ーい香りを振りまいていたものです。
ベランダでねじりこんにゃくを手伝い、ニンジンの型抜きをして、大みそかの夜は芽キャベツの入ったお煮しめをつまんでおそばを食べる。ああ、明日目が覚めれば新しい年で、セカイは丸ごと別の次元にお引越しをするのだと、その緊張感に震えた日々。
明日はきっといい日、来年はきっといい年、といつも祈る思いでした。相当臆病だったんでしょうね。

歳を重ねて、祈っても祈っても世界が変わらないらしいってことはわかったけれど、
それでも、愛の人になるべく、セカイに愛の人が増えてゆくべく、願い祈り続けたいと思うのです。
それを失ってしまったら、生きて居る甲斐もなくなる気がするから。



                       (フィエーゾレのホテルのベランダより)