気が触れたように長い日記です。ちなみに玉木くんは出てきませんのであしからず。

以前映画のレビューをよく書いてました。ここじゃなくてとあるレビューサイトに。
幾年か前、相当前、ユルマズ・ギュネイ監督のトルコ映画「路」を借りてきて見て、深くえぐられるものがあり、
さて書こうと思ったら、書けなかった。
考えることが多すぎて書けなかったんです。痛くて書けない。もう考えるだけでお腹いっぱいになったのでそのまま放置しました。
この映画は、アジアとヨーロッパの堺の海、マルマラ海に浮かぶ監獄島から始まります。
あるとき、そこに拘置されている囚人たちに5日間の仮出所が与えられました。それぞれの故郷に向かう男たちの人生の断面が、そこで描かれるんです。
一番胸に刺さったのは、名誉殺人についてのものがたりでした。
囚人の一人、セイットの妻ジネは夫の不在中、生きるために男に身を売り、家族に捉えられ、鎖で地下に繋がれます。パンと水だけで、8か月。痩せた獣のように彼女は弱りきるのです。
妻と会うことを楽しみに帰ってきたのに、一族の名誉のために妻を殺せと家族から迫られ、セイットは息子とともに彼女を実家に帰す旅に出ます。雪に閉ざされた冬山を越えての旅。道中で妻が凍死するのを見越しての死出の旅でした。
過酷な日々の中で弱りきっている彼女は雪の中に倒れ、夫に許しを請いながら気を失います。けれど、掟に縛られながらもジネへの愛を失ったわけではないセイットは彼女の名を絶叫しながら頬を叩き、背負って雪の中を歩きます。息子に、眠らないようお母さんを叩けと言いながら。
けれど結局ジネは凍死。彼は病院に集まった一族から「よくやった」とねぎらわれるのです。地獄に落ちたような表情のまま。

最近、また考えるところがあり、アフガニスタンを舞台にした半ドキュメンタリー映画「アフガン零年」を見ようとしたんですが……
レビューやあらすじを見ただけでもう見れなくなりました。
「路」から、さらに後退です。
どちらにも共通しているのは、厳格なイスラム教の因習の元で抑圧されている女性が出て来ること。その土地に住む当事者(男性監督)によって描かれた、事実をもとにした重い映画だということ。
あらすじはWIKIから頭の部分を引用します。なにしろ、観ていないので。
「父親を内戦で失った12歳の少女は、家族を養うために働かなくてはいけなかった。しかし、タリバン政権下では、女性が男性の同伴なしに外出が出来なかったため、彼女は髪の毛を切って少年として牛乳屋で働き始めるが・・・」
こののち彼女は少年たちの「兵士としての教育のための学校」に行くことを強要され、そこで女性であることが露呈します。
(井戸に吊るされたまま初潮が始まるという悲惨な形で)
そして彼女は罰を受け、死刑相当のところを「老人の妻となる」という形で生き延びることを許される。悲惨な結婚生活がそこから始まることを予期させて映画は終わる、のだそうです。
彼女のために泣いてくれたのは、お香売りの少年一人。彼もやがては「男子向けの教育」の内に、女など涙を流すにたる対象でないことを学ばされるのだろうというレビューを見ました。
映画は見ていないのですが、メイキングでのエピソードは聞きました。
この映画の出演者は、そもそも女性が芸能活動に従事することを許されていない御国ですから、すべて素人です。少女は路上の物売りでした。映画の主人公と同じです。
泣くシーンの時、監督が「今まであった悲しいことを思い出して」と言ったら、少女はぽろぽろと泣きつづけて止まらなかったそうです。
その姿を見て監督は、当初予定してあった希望の片鱗を残したラストを撤回し、現実を描かねばと、彼女の涙そのままの救いのないラストにしたという話でした。

こうした「ある状況下での女性の悲劇をえがいた作品」には必ず同一の色調のレビューがつきます。
「時代背景も政治も宗教も違うんだから一方的な価値観で少女を憐れとか可哀想とか感じるのは僭越」
これがなんとしても、この作品を見る勇気をわたしから奪うのです。
いくら見てもそして何を感じても、異国の因習、異国の状況に対してに何をしてあげられるわけでもないし、世界は変えられない。そしてこのしったかぶりの「大人のレビュー」と戦いたいという衝動を与えられるだけ。
日本国内においてさえ、隣りの塀の中にいる人の国籍はわかりません。彼ら彼女らはそれぞれの文化、宗教、背景の中で生きているんだから
親が子をどう扱おうと夫が妻をどう扱おうと、口を出すべきでも目を向けるべきでもないといえばそうでしょう。
でも一つ言えること。
人間は、国籍、民族、宗教、身分、さまざまな線引きで分けられカテゴライズされます。日本に住んでいれば日本の宗教、法律で語れるところだけ限定で善悪を語るしかないんでしょう。
でもわたしにとっては。
人類はたった一つの線で分けられます。
男と女。
それだけです。

世界中のどんな分類によって分けられていようと、女性は女性というだけで自分の問題としてこの身の内にあるのです。
だからよく聞く「余計なお世話説」はわたしには通じません。
勿論その人単体が、自分の命を懸けて選んだ国であり宗教であるのならわたしは言及しませんが。

前述した、「それぞれの背景があるのだから部外者には何も言えない、価値観はそれぞれ違う」というのなら、中国によるチベット問題も北朝鮮の独裁体制も、別に批判するに当たらないでしょう。こちらにとって脅威かそうでないかだけの次元で語ればいいことであって、善悪は関係ない筈。でも世間の反応は違う、明らかに善悪で語っています。
わたしは恵まれた国に生まれ、女だからと生存権まで脅かされたことはありません。自由に幸せに暮らせています、性犯罪系はちょっと別ですが。
でもだからといって、ことなる環境の下で動物以下の扱いを受けている女性の悲劇を「善悪の問題じゃない」といって横にうっちゃれません。なぜならそう、わたしも当事者の女性だから、です。
そもそも思うのです。すべての事象に距離を置いて、客観という立場を崩さないことにどれだけの価値があるのか。
わたしはわたしとして私の生を生きてきた、その中で培った価値観はわたしのもの。
そして、自分があるから世界があるのか、世界があるから自分があるのか、という幼いころからの問いの中で、図々しく認識したことがあります。
世界の中心にわたしがいる。わたしが認識したからこの世はある(わたしにとって)。それはすべての人にとってそうであるはず。多少哲学的になりますが、世界はそれを認識する人の中にそれぞれ「意識」として独立して形成されるのだから。
だから嘆くべきこと、怒るべきことはわたしの中で決めるのです。

あるサイトで、[生きるためにどうしても必要なものは]という問いがありました。
わたしの答えは「死という名前で呼ばれる何か」です。
死という終り、永遠の無を認識し、そこまでの存在と自分を限るからこそ、わたしは自分の目線をまっすぐにできる。
そして、限られた命を嘆きの中で生き、仕事の自由・外出の自由を奪われ、仕事をしたからと言って殺される女たちは、「そこにそうしてあるんだから仕方がないもの」ではなく、本来の生、本来の命を尊ばれるべきものとしてわたしの嘆きの中に永遠に置きつづけるでしょう。
去年一年間、わたしが小説(酔 迷 宮)を書きつづけることに費やしたのは、こういう思いにずっととらわれていたからでした。

書いたからと言って現実が変わるわけではない。でも書くことは祈りのようなものでした。

それでも世界は変わらない。

変わらないけれど、残る人生を、わたしはやはり祈りつづけ、問い続けると思います。

GODという唯一無二の存在はどこにあるのか、
何故命を生み出す女性たちの嘆きの前で沈黙したままなのか。
どうして女性はその性別だけで教育の機会を奪われ、卑しいものとしてしばしば囲いの中で暮らし、ルールに背いたからというだけで男性の手によって処刑される運命にあるのか。
世界中のさまざまな国、繰り返す歴史の中で。


$水☆迷☆宮




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