14日は玉木くんの誕生日でした。いまさらか。
(ブログですいっと通過しちゃったけど、ツイッタで呟いて終わって気になってたのよね☆)
なんだかおとななメールが来て、おお、普通になっとると新鮮な気持ち。
33だもんねー、ピカルの定理でもあまりに落ち着いた渋イケメンの具合の良さに、もう髭とか髭じゃないとかどうでもよくなって、これはやはりクラノスケかタニショーの嫁かどちらかしかない。と、相変わらずくだらないことしか考えられずにおりました。
(しかし今見ても純平君のピカピカな若さ可愛さはどうだ!ありゃ奇跡だわ。)
今に至っても、どうも彼の横にどこかの女性を置いて似合うと思えない。病気か、希望的観測なのか、単に似合わないと思うのよね。容姿的に女じゃもったいないんだわ。

そして、大島渚氏。
ご冥福をお祈りします。
氏の映画について、愛のコリーダの裏話については、ここでも何度か取り上げました。
大島氏は、なんといっても見た目と雰囲気が亡き父によく似ていて、(あの頑固さもコミ)すごく気になるお方だったんです。独自の美学と価値観をお持ちで、信念の激情家でしたね。
十七年。愛妻の小山明子さんにとっては長い長い介護だったでしょう。
彼女の献身的なことについては、もう息子さん夫婦が恐れをなすぐらいで、母さんの代わりはいないし誰にもそのまねはできないから、母さんが逝くときは父さんも連れて行ってくれ、と冗談交じりに言うぐらいだったとか。
あれほど妻に対して傍若無人にふるまっていた大島氏、寝たきりになってからは、眠りにつくとき必ず夫人に添い寝してもらわないとだめで、ベッドの中から「ママ、ママ!」と呼んでいたと言います。
そして、舞台初日前日に夫の死に立ち会った夫人。
この日を選んでくれたのだろうとおっしゃっていました。舞台が始まったら最後に立ち会えなかったかもしれませんからね。
施設での介護だったら、寝たきりで十七年もおそらく長らえられなかったと思います。なんだかんだいっても、大島氏は幸せな方と言えるでしょう。でもそれほどの女性を伴侶とできるのも、それなりの男だったからなんですね。

さて、今日はこっからが長いです。
いきなり時事問題というか、くどい話を持ってくるからです。

卵子提供ボランティア募集へ=不妊女性にあっせん―民間団体


こういう時代になりましたか。不妊の女性のために他人の卵子をあっせんすると。
さて、こういうことには最低限の情報が伴わなくてはいけないですよね。
採卵に伴う苦痛とリスクはそうとうたいへんなものです。友人も長いことやっていて、それはそれは辛いとこぼしておりました。局部麻酔でも痛みに耐えかねて暴れる人もいるとか。
出血、臓器損傷、アレルギー、不妊リスクの増加等。これだけの肉体的負担をボランティアで他人に負わせていいものかとつい考えてしまう。
卵子提供のさいも、自然に採卵するわけではなく、排卵誘発剤を使うようです。誘発剤の副作用として子宮内膜が薄くなるので着床しにくくなるというリスクがあります。
参考までに。

さて、個人的な懸念はその先です。
こういうことが「可能」となると
気の進まない男性が責められたりはしないだろうか、と。そんなことが気になりまして。

愛する奥さんの子どもならば大事にしたいけれど
どこのだれかわからない女性と自分との間の子ども。
それを生む自分の奥さん。
頭が混乱しすぎて、どうも気が進まない。いないならいないでいいじゃないか、不自然なことはしないで。自分は二人の生活でも十分満足だ。
そんなことを言うと、あなたは女の気持ちがわからないとか言ってガンガン責められたりはしないだろうか。
じゃあ僕がよそにいって誰かに子供を産ませて来ればいいのか……
どか~んっ(何かをぶつけられるレベル)

だって自分にとっては同じだ。よその女性の子どもが君の腹から出て来る。よその女性が自分の子を産む。
どちらも「同じ子」だ、悪いけど十分には愛せない。きみの子とは違う。てかべつに欲しくない。

よその子が愛せないなんてエゴ!
じゃあ養子でいいじゃないか!
愛しているならわたしに子供を産ませてよ!あなたの血を引く子を!
そこから出てきたとしてもそれはきみの子じゃない。ぼくはそうまでしてほしくない、諦めてくれ。
……なんて修羅場が「選択肢がある」ばかりにあちこちで展開されたりして。

「選択肢がある」ことの功罪を、いつも思うんです。

たとえば生体肝移植。
それによって助かる命があるなら、それによってしか助からない命があるなら、家族ならば当然身を削ってでも提供したいと思うでしょう。
でも、この「思うはずだ」は、義務ではない。ここが問題なんです。
健康な体に傷をつけて臓器を取り出すのは、同意がなければ「傷害」にあたるレベル。
本来してはならないことです。
でもそこを、自分の身体なのでどうぞすきにさせてください、ということで取り出しが可能になる。そういうことでしょう。けれど、
家族に病人が出たとして、それが子どもだったとして、提供を求められた相手に、選択権は現実的にあるんでしょうか。
「自分は自分の健康が大事だから臓器は取り出してほしくない。体にメスを入れられるのが嫌だ」ともし、父親がいったら?
「それでも親なの!鬼!」と大喧嘩は必定でしょう。
母親の体にトラブルがあって提供できないとしたら、大きな亀裂が入ると思う。生涯許せないレベルの。
でもわたしは当然拒否権はあると思います。その人の身体はその人のものだから。
医学の発達はこういう残酷な事態を引き起こす。愛情を図る無情なリトマス紙のように。

「胃ろう」にしても、そう。
老い先短い親が、特養に入っている親が、いよいよ胃ろうを繋がないと生きていけなくなった。
「繋げば生きていけるけど、わずかながら意識もあるけど、国の介護施設はでなくてはなりません。そこまでのケアが必要な人は自宅介護か、民間の介護施設に入ってもらいます。(胃ろうからの栄養注入は原則的に家族か医療従事者しかしてはならない)
で、つなぎますね。よろしいですね?」
ここで「お断りします」といえば、親に死んでくれと言ったも同然になる。親不孝を絵にかいたような選択。でも、民間の介護施設は入居一時金だけで平均1000万ほど。そして毎月40万は出る。
コドモ夫婦の生活を潰してでもそれをするべきなのか……

臓器移植をすれば、胃ろうを繋げば、昔はあきらめなければならなかった命が長らえられる。
他人の卵子をもらえば、不可能だった出産が経験できる。
昔と違う。あきらめなくてもいい。
その選択肢の向こうに広がる、「否定」「拒否」した側に対する厳しい反応を、
「自然でいい」という答えに対する「愛情はないのか!」という問いかけの残酷さを、わたしはいつも思ってしまうのです。
昔はあきらめていた。今はあきらめなくていい。
医学の限りない発達が作り出す、身もふたもない選択肢の影を。

$水☆迷☆宮