ローマの休日。
この純愛ストーリーの代表のような映画で、ファンの間ではしばしば紛糾する話題があるという。
それは、とどのつまり、
アン王女とアメリカ人記者ジョー・ブラッドリーは
やったのかやってないとか。
という一点だそうだ。
わたくし、この映画何度か見ましたが
そんなことに考え及んでおりませんでしたよ。
別れ際のキスで十分、あそこで成就したものだと、ええ、それで十分満足&納得してました。
だってねえ。
主役がオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ぺックでしょ?
マリリン・モンローとクラーク・ゲーブルじゃないんだから。
銀幕の妖精さんと、品行方正なアメリカンジェントルマン。
そして王女のアバンチュールと忍ぶ恋、という大人のファンタジー。
やったかやってないかなんて頭の片隅にもありませんでした。別になくたって全然構わないし。
ところが見る人によっては、あれでなにもなかったと思い込んでること自体変態に近い無知、恍惚に近い年寄り脳らしい。
ってくらいの勢いでけんか腰で論争してるサイトまであるんだもん。
双方どっちの見方もあるでしょ、というレベルですらないのだ。あったってことを認めないとこのストーリー自体に対する侮辱になるらしい。
ではじっくり見てみましょう。
船上のパーティーで、王女の追っ手相手に記者と王女が大立ち回りし、川に飛び込み、ずぶぬれになって記者のアパートにたどりついてからのシーン。
しばらくアパートの遠景が映り、そして風呂上がりのようなアン王女が、男の服をまとってバスルームから出てくる。
「やってる派」によると、この間にもう「成就」してるらしい。
で、二人の会話。
ジョー:Everything ruined?
アン王女:No. They'll be dry in a minute.
「みんなダメになっちゃったかい?」
「いいえ、じきに乾くわ。」
ここら辺が深読みされて、
つまり
君はすべてを失ったろうか?
いいえ、こんなことはなんでもないの。
てな感じの色っぽい会話に変換されてるらしいですね。
で、やったかやってないかじゃなくてやったにきまってるんだ!派にいわせると、
籠の鳥状態の王女のひと時のアバンチュールを
本物の恋物語にするには、
ここで一生一度の相手にすべてをささげてこそ、思い出も永遠のものになるのだし
ジョーも、彼女の悲劇的な人生を知っているからこそ
男として、すべてを与えていて当然ではないかと。
どうせこれからは偽りの恋、偽りの結婚、偽りの人生しかないのだから
最初の相手が本当に恋した男性だあるべきだと。
そういうロマンがあってこその物語だというわけですね。
で、まじめにこの論争に加わる気のない私は、どうしても言いたくなるのだ。
それってそんなに重要ですかっ?
つまり、やったのやってないのということが。
ええぶっちゃけましょう、セックスですよ。
それって恋の最高の成就のかたちですか?
それによって、何かがなされ、完成され、到達したって程のもんですかね?
これは私個人の価値観ですが、
生物は、あるいは肉体は遺伝子の乗り物だから、生殖行為は重要です。生物の存在意義はそこにあるんです。我々は繁殖し続けなければならない。神の設計図を次の世代に伝えるために。
しかしそこまでの話です。
すべての生き物は愛はなくても繁殖します。
が、人が、人だけが、
繁殖にかかわらない忍ぶ恋のせつなさと美しさに立ちどまり、
そこで歌を詠み、涙を流し、相手のしあわせのみを祈り、すべてを思い出に変えて生きることができるんです。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり. (島崎藤村)
恋の至極は忍恋と見立て候。
逢いてからは恋のたけが低し、
一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。 (衆道における恋の心得BY葉隠れ)
恋死なん のちの煙にそれと知れ ついに知らさぬ中の思ひを (同上。だと思う)
とかとか。
こんな不毛な思いを恋と名付けて、後生大事にしようとするのは人間だからですよね。
それは神の陰謀、すべては遺伝子を次の世代に伝えるためのかぐわしいふりかけにすぎない恋というものを、
その陰謀の手からもぎ取って、人のみが味わえる美酒にかえた魂の技でございます。
ひとだけが、それをできる。
音楽、数学、天文学、それらが
神が作りだした世界の調和を知る学問だとするなら(Byのだめ)
人だけが作り出せる不毛で矛盾に満ちた音律もまたあるのだと思いたい。
私のロマンスはそこにあるのです。
だから!
アン王女とジョーがやってようがやってまいが実にどうでもよいのだ。
ところで問題はそこじゃない、そう。
ギルティの芽衣子と真島ですよ。
30過ぎてまるで少女のようなめいこちゃんは、どうやらすっとぼけてるんじゃなくて
本当に、ああらしい。
真島に言葉をかけられるだけで、触れられるだけで、痛みに耐えるように体を固くする哀しい孤独。
そして真島くん。
あれほどフェロモン垂れ流しの万理さんのヒョウ柄なお衣装にも負けず、ストイック一直線。
そして、魂がひりひりと痛むような恋が、芽衣子との間に横たわっていますね。
人の魂の距離というのはもともと測りがたいものですが、
この二人は置かれた状況が複雑すぎて、その迷路をうまく通り抜けないと
ただの「人」としてのお互いに近づけない構造になってる。
まるで迷宮のアリアドネです。
だからこそ、この二人には、今時珍しいゼロからの、
人が人の魂に出会う時の痛み丸ごと含めたゼロからのアプローチと恋、生と死が、まるで神話のように静かに待ちうけてる気がするんですよね。
サスペンスとは別に、不思議な静けさの中にある二人の恋と運命を
今は静かに見守りたい気分です。
殺戮の向こうで、静かに目を閉じて祈りをささげる芽衣子のもとに
真島がたどり着くまで。
ストーリーのラスト、彼は彼女を断罪するのか、あるいはともに断罪されるほうにいるのか、さあどちらなんでしょうか。
ローマの休日から始まってとりとめのないこの展開はなんなんのだろうか。
単純な話、ワイルドターキーで酔っぱらってるからでした。
思いつきで長文御免なさいませ
この純愛ストーリーの代表のような映画で、ファンの間ではしばしば紛糾する話題があるという。
それは、とどのつまり、
アン王女とアメリカ人記者ジョー・ブラッドリーは
やったのかやってないとか。
という一点だそうだ。
わたくし、この映画何度か見ましたが
そんなことに考え及んでおりませんでしたよ。
別れ際のキスで十分、あそこで成就したものだと、ええ、それで十分満足&納得してました。
だってねえ。
主役がオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ぺックでしょ?
マリリン・モンローとクラーク・ゲーブルじゃないんだから。
銀幕の妖精さんと、品行方正なアメリカンジェントルマン。
そして王女のアバンチュールと忍ぶ恋、という大人のファンタジー。
やったかやってないかなんて頭の片隅にもありませんでした。別になくたって全然構わないし。
ところが見る人によっては、あれでなにもなかったと思い込んでること自体変態に近い無知、恍惚に近い年寄り脳らしい。
ってくらいの勢いでけんか腰で論争してるサイトまであるんだもん。
双方どっちの見方もあるでしょ、というレベルですらないのだ。あったってことを認めないとこのストーリー自体に対する侮辱になるらしい。
ではじっくり見てみましょう。
船上のパーティーで、王女の追っ手相手に記者と王女が大立ち回りし、川に飛び込み、ずぶぬれになって記者のアパートにたどりついてからのシーン。
しばらくアパートの遠景が映り、そして風呂上がりのようなアン王女が、男の服をまとってバスルームから出てくる。
「やってる派」によると、この間にもう「成就」してるらしい。
で、二人の会話。
ジョー:Everything ruined?
アン王女:No. They'll be dry in a minute.
「みんなダメになっちゃったかい?」
「いいえ、じきに乾くわ。」
ここら辺が深読みされて、
つまり
君はすべてを失ったろうか?
いいえ、こんなことはなんでもないの。
てな感じの色っぽい会話に変換されてるらしいですね。
で、やったかやってないかじゃなくてやったにきまってるんだ!派にいわせると、
籠の鳥状態の王女のひと時のアバンチュールを
本物の恋物語にするには、
ここで一生一度の相手にすべてをささげてこそ、思い出も永遠のものになるのだし
ジョーも、彼女の悲劇的な人生を知っているからこそ
男として、すべてを与えていて当然ではないかと。
どうせこれからは偽りの恋、偽りの結婚、偽りの人生しかないのだから
最初の相手が本当に恋した男性だあるべきだと。
そういうロマンがあってこその物語だというわけですね。
で、まじめにこの論争に加わる気のない私は、どうしても言いたくなるのだ。
それってそんなに重要ですかっ?
つまり、やったのやってないのということが。
ええぶっちゃけましょう、セックスですよ。
それって恋の最高の成就のかたちですか?
それによって、何かがなされ、完成され、到達したって程のもんですかね?
これは私個人の価値観ですが、
生物は、あるいは肉体は遺伝子の乗り物だから、生殖行為は重要です。生物の存在意義はそこにあるんです。我々は繁殖し続けなければならない。神の設計図を次の世代に伝えるために。
しかしそこまでの話です。
すべての生き物は愛はなくても繁殖します。
が、人が、人だけが、
繁殖にかかわらない忍ぶ恋のせつなさと美しさに立ちどまり、
そこで歌を詠み、涙を流し、相手のしあわせのみを祈り、すべてを思い出に変えて生きることができるんです。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり. (島崎藤村)
恋の至極は忍恋と見立て候。
逢いてからは恋のたけが低し、
一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ。 (衆道における恋の心得BY葉隠れ)
恋死なん のちの煙にそれと知れ ついに知らさぬ中の思ひを (同上。だと思う)
とかとか。
こんな不毛な思いを恋と名付けて、後生大事にしようとするのは人間だからですよね。
それは神の陰謀、すべては遺伝子を次の世代に伝えるためのかぐわしいふりかけにすぎない恋というものを、
その陰謀の手からもぎ取って、人のみが味わえる美酒にかえた魂の技でございます。
ひとだけが、それをできる。
音楽、数学、天文学、それらが
神が作りだした世界の調和を知る学問だとするなら(Byのだめ)
人だけが作り出せる不毛で矛盾に満ちた音律もまたあるのだと思いたい。
私のロマンスはそこにあるのです。
だから!
アン王女とジョーがやってようがやってまいが実にどうでもよいのだ。
ところで問題はそこじゃない、そう。
ギルティの芽衣子と真島ですよ。
30過ぎてまるで少女のようなめいこちゃんは、どうやらすっとぼけてるんじゃなくて
本当に、ああらしい。
真島に言葉をかけられるだけで、触れられるだけで、痛みに耐えるように体を固くする哀しい孤独。
そして真島くん。
あれほどフェロモン垂れ流しの万理さんのヒョウ柄なお衣装にも負けず、ストイック一直線。
そして、魂がひりひりと痛むような恋が、芽衣子との間に横たわっていますね。
人の魂の距離というのはもともと測りがたいものですが、
この二人は置かれた状況が複雑すぎて、その迷路をうまく通り抜けないと
ただの「人」としてのお互いに近づけない構造になってる。
まるで迷宮のアリアドネです。
だからこそ、この二人には、今時珍しいゼロからの、
人が人の魂に出会う時の痛み丸ごと含めたゼロからのアプローチと恋、生と死が、まるで神話のように静かに待ちうけてる気がするんですよね。
サスペンスとは別に、不思議な静けさの中にある二人の恋と運命を
今は静かに見守りたい気分です。
殺戮の向こうで、静かに目を閉じて祈りをささげる芽衣子のもとに
真島がたどり着くまで。
ストーリーのラスト、彼は彼女を断罪するのか、あるいはともに断罪されるほうにいるのか、さあどちらなんでしょうか。
ローマの休日から始まってとりとめのないこの展開はなんなんのだろうか。
単純な話、ワイルドターキーで酔っぱらってるからでした。
思いつきで長文御免なさいませ
