本日は雑談です。

うちの近くの公園には、「思い出ベンチ」ってものが設置されてて。

一脚十五万~二十万円出すと
公園に自分の名前とメッセージを入れたベンチが設置できるというもの。

これはなかなかのアイディアで
公園で親子代々、またはわんこ仲間と愛犬を散歩させながら
思い出を重ねてきたひとびとが
追悼の、感謝の、約束の言葉を掘りいれて、次々寄贈してきました。

一つ一つ巡り歩くのも楽しいもの。特にひと気のない雨の日なんか、いい。

○○さん、そちらはどうですか?あなたが行って何年。
もうすぐ私もそちらへまいります。

私たちが出会い、子どもたちが遊び、孫が戯れるこの公園よ、永遠に。

いつも愛犬Rを散歩させてくれたお父さん、天国でなかよくしていますか?

そんな思い出が刻まれたベンチに座り、いろんな人がぼーっと池を眺めたり、本を読んだり、ワンちゃんどうしのよもやま話に花を咲かせたりして
また小さなドラマが生まれる、四季を彩る木々の下。


でも、その公園の端っこのあるベンチで、私はとても残念な風景を見ました。
そこには思い出ベンチではなく、背の低い幅の広い、背もたれのない、どっちからでも人が顔を見ながら座れるベンチがあったのね。
座りやすく世間話もしやすいので、ご近所のご年配の人たちの社交場になっておりました。
脚の悪い女性が、脚の悪い愛犬をゆっくり散歩させながら座ると
いつもピーナツの袋を握ってやってくる太ったおっさんが
子どもたちとハトにおやつを配る。
いつもお酒臭い息をしている気のいいお爺さんは
れろれろと回らぬ下で冗談話ばっかり。
必ず新聞を握って座るお爺さんはいつも一言もしゃべらない。でもみんなの話を聞きに来る。グラウンドを何周も何周も走ってから立ち寄るガタイのいいおじさんは
サングラスが決まってて、冗談がうまい。

みんなでわいわい、株の話、天気の話、政治の話、病気の話…

私はちっちゃな子どもたちのベビーカーを押しながらそこに行き
こどもたちはおじさんたちに頭をなでられ、ピーナツをもらい、わんこと遊び、
たかいたかいされながら大きくなってきた。
そして子どもたちはお年寄りとわんこが大好きになりました。

なのにある日ある時、そのベンチは取り去られ
突然、背の高い、幅の極端に狭い、ただの板に足がついただけの
凄く粗末なベンチが代わりに設置されていました。
脚の長い若い人しか安定して座れず
一度に座れる人年はせいぜいふたり。
しかも間をすごく開けて設置してあるので
それぞれの間で会話はできない。

長年、桜の木の下に形成されてきたお年寄りの日だまりコミュニティは
否応なく自然解散となり…
都会のお年寄りらしく、たいして自己紹介もせず、
でもつかず離れず集ってきたやさしいひとたちは
いつのまにか、バラバラになってしまったのです。

あの大きなベンチ一つを取り去られたせいで。

あそこで過ごす午前の何時間かが
どんなにあの人たちの安らぎになっていたか
人生の中の大事なひだまりになっていたかを思うと
私は悔しくて仕方なかった。
どんなに大きなものを、公園という場所から奪ったか、管理している側はわかっているんでしょうか。
まだまだ丈夫だったあのベンチを取り去って
ただの背の高い荷物置きのような、
誰も座らないベンチにした意図が
私にはさっぱりわかりません。


公園とベンチ。
それが作り出すドラマと風景、貴重な時間、ささやかな人とのつながりを
公園を作る側はもっとちゃんと考えてほしいと思います。
ベンチはただの、「疲れた人の腰掛け」ではないんです。
ほんとうに、違うんです。
人々の時間軸の中にある、大事な停留所みたいなものなのです。
これは今から何年も前のおはなし。
今思い出しても、あの緑深い公園の木陰からベンチが消えた朝が、無念でたまりません。

こどもたちを、ハトや犬やお年寄りの好きな子に育ててくれたお爺さんおばあさん、おじさんおばさんたち。
ベンチの下の日だまりコミュニティ。
幸せなひとときでした。
ほんとにどうもありがとうございました。


井の頭公園~思い出ベンチ
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