真夏のオリオンは上映が終わり
MWも都内何か所か限定に限られてきた今日この頃。

改めて映画誌にのった読者の映画レビュー、評論家のレビューを見ての
私感でございます。

今発売中のキネ旬に
現役自衛官の方の、オリオンレビューがあったのね。
結論からいえば、これはけして絵空事ではない、
「非常時における判断を下すリーダー」として
まことにリアルで現実的な人物像であると。
そういうお話でした。

その方が例に出したのが、戦時中のフィリピンで生き残ったある日本軍の部隊の話。
その隊は、まずトイレを確保し塩を手に入れるルートを見つけ、バナナ畑を手に入れて食料を得たと。
いかに戦うかよりも、まず生きるための下地を作り、食と排泄、その二つの環境を整える。
そういう堅実な基盤があってこそ、最後まで戦える基盤が作れるのですね。

あの潜水艦の中で、まず食おう!と部下にいい、食を大事にし、
いざという場面でも飄々と冷静だった倉本。
彼のような理性こそが、危機の現場では実は必要なのだと言うお話は
自衛官をしていらっしゃる人のお話だけに、とても実感がありました。

あの作品の見方としても、すごく適切だと思います。
常々思ってたんだけど、あの映画は
「戦争中の潜水艦はこんなでした」ではなく
「危機にあってこそこういう人物がいてほしい」という、未来へ向けての、
ある意味わかりやすいテーマだったと思う。
でもあんだけわかりやすいのに、延々と
「帝国軍人はあんなじゃない」とか
「現場でもしアレがああだったら軍法会議ものだ」とか
髭が足の長さが、スタイルが言葉遣いが。
そんなことにこだわる輩の多いことむっ

そのこだわりの根底に出てくるのがいつも
「帝国軍人は」。
すごく不思議だったんだけどね、
いや、映画としての評価は置いといて。
日本男児とか、軍属とか軍人じゃなくて
帝国軍人
という単語に込められた、
一種崇拝の対象のような、宗教的なにおい。
その時代を生きたわけではない若者こそが、逆にこの言葉が想起させるイメージに
神経質になってる気がするのは、なぜでしょう。

その時代、軍人として一時期を過ごし
日本のためを思っていた男子はたくさんいたし
みな人として尊かったと思うんだけど
一人ひとりとして彼らを評価するのではなく
「帝国軍人」としての言葉の威厳のほうに重きが置かれている気がする。
だから、オリオンで、イコンのようなそれのイメージに合致しない容姿とか描かれ方とかに
このすごく固執して批判してたと感じるのね。

たぶん理想とされていたのは、この現役自衛官がおっしゃる、軍人俳優に求められる
「三船敏郎とか鶴田浩二のように武骨で粗野で男っぽい軍人イメージ」ですね。

どうしてそうでなくては勘弁ならないのだろう?
私はそこが不思議でなりません。
人として、戦いに向かう姿勢とか
部下に対する思いやりとか判断能力とか
生き方価値観。
それこそが大事であり、
そこを自由に、あるべき姿として描いただけのものに
「帝国軍人はそうでない」という物差しだけをもってきていきどおっていたひとたち。
むしろ昔の時代を軍人として生きた、今もご存命の元潜水艦長は
「あの時代の我々をよく描いてくれた、仲間もこれなら文句を言うまい」
ときちんと評価していたというのに。
90歳の現場を知る人が抵抗ないと言っていたところに
わざわざイコンのイメージで抗議する頭の固いひとびとが
若者に増えてるところが、女である私にはわかりませんですね。

キネ旬では、まあオリオンの映画そのものは
いい評価はされてなかったわけですが
その中で、玉木艦長に対する評価。
「彼は、戦争中の日本男児が
甘ったれて怒鳴り散らすのを許さない瞬間のある俳優だ」
これは言い得て妙でした。

潜水艦の艦長は坊主刈りではない。むしろ長髪も許されていた。
潜水艦は食べ物に恵まれていて白いご飯は珍しくなかった。
怒鳴って指令することはほとんどなく、実際に上下関係は緩やかだった。
潜水艦内は、圧迫感を出すため実際より天井を低くつくってある。
そのくらい当時のイ号は実は巨大で内部も余裕があった。

等々、いちいちいいわけしたくなる間違い指摘は枚挙にいとまがないのですが
大事な部分、こういう人物こそが危機の時にいてほしい、
いや、これに類する若い艦長がいて、命を守ることに心を砕いたリーダーのいる群こそが
非常時に戦える環境を保持できた。
という、ささやかで大切なテーマを見落としてほしくない、とほんとに思います。

でっかい功績は、新聞の文字を大きくすればだれにも見えるけど
こうした地味な努力は、それこそ夜空の星座のように
目をこらさなければ見えなくて、でも尊く美しいものだと思うから。