3月9日は、私の母の6回目の命日です。

丁度、朝のこの時間でした…


闘病生活、約5年。

私が32歳の時、当時の仕事を退職し、少しだけゆっくりしたいと思っていた時でした。

いつも明るく飛び回り遊びも仕事も120%全力投球の母ハート

その母が身体の不調を訴えて来たので、私が病院に連れて行きました。

余りに腰から足の痛みを訴えるので大事を取って入院。


それからしばらくして、帯状疱疹だとわかったんですが、入院してたにも関わらず、発見が遅れた為に、かなりの痛みの為に夜中にブロック注射を打ち…

それが原因かは分かりませんが、母の体調は悪くなる一方で帯状疱疹はとっくに治っているのに、それから4ヶ月も入院は続きました。


それから精神の病にもかかり、幻聴が聞こえ、その声に焚き付けられ、自殺未遂まで起こしてしまい、精神病院にも何ヵ月もお世話になり、精神障害手帳1級を貰いました。

幻聴に襲われた母は別人で、凄く怖い思いも辛い思いも経験しました。


脳脊髄液減少症なども疑い、検査の日々。

確かに、ブロック注射を打った辺りに微かに漏れが見つかり…

ブロック注射を打った時に何らか起きた可能性はあるとも言われました。

なので、その治療として、ブラッドパッチと言う治療も数回しましたが効果なく…


私1人で介護していたので、正直私まで精神的に病んでいきました…

そして…

最終的に母を襲った病は、急性骨髄性白血病でした。

発見された時には、治療しても3ヶ月。

治療しなければ1ヶ月と言われ、母は治療をしない道を選びました。


母に余命宣告をしたのは私です。

今でも忘れる事が出来ません。

私の姿を見つけた母はとびっきりの笑顔を私に向けました。

その笑顔に答える様に私も母に笑顔を見せました。

私「お母さん、この前の検査の結果出たよ…」

母「どうだった?」

私「……
……
どんな結果でも知りたい?」

母「うん♪知りたい!」

母の笑顔を見たらもう耐えられませんでした。

そんな私を見た母は…

母「ゆうちゃん、大丈夫!
お母さん全部受け止めるから言って!
ゆうこ、頑張れ!頑張って言え!
お母さんは大丈夫だから!」

私は泣きじゃくりました。

私「お母さん……
白血病だって…」

母「白血病かぁ…
やっとちゃんとした病名がついた!
やっとみんなに分かって貰えるんだ…」

病名がはっきりしないまま、何年も殆ど寝たきりの母は、母も凄く辛かったんだと思います。

母「ゆうちゃん、お母さん後どれくらい生きれるの?   お願い教えて…」

泣けて、泣けて直ぐには伝えれませんでしたが、母の説得でやっと伝えたんです。

私「後3ヶ月だって…」

母「3ヶ月かぁ…    短いなぁ…」

もう7年以上も前の事ですが、胸が痛くて締め付けられる位、思い出すと今も苦しいです。

でも、苦しかったのは母の方ですよね。

家で看取るつもりで白血病の介護を始めた直後の写真。


こんなにベタベタ出来る親子ではなかったのにな…

不思議な感覚でした。

初めのうちは私の為に生きると、大学病院に通って輸血だけはしてくれてました。


車イスでも辛いので病院ではいつもこうして椅子に寝かせて足をずっとマッサージして待ちましたキラキラ


座るのも辛い母が輸血が終わると少し元気になってくれたんですハート


その頃には姉達と一緒に介護していましたが中々思うような介護は出来ず、母はホスピスに入ることになりました。

治療をしていない母は、余命1ヶ月と言われましたが、それから頑張って、頑張って、頑張って…


1年5ヶ月生きてくれたんです!!

私だけに極度の依存症になり、姉達が居なくても大丈夫なのに、私が居ないとおかしくなる程でした。

一時間かけて母に会いに行く日々は、ほぼ毎日でした。

あの日々はもう経験したくないですが、私のかけがえのない貴重な日々です。

ここからはホスピスでの写真です。

病室から出ることも出来ない位の精神的にもダメだった母がお散歩出来た日、本当に泣けました!


ホスピスは誕生日とか、イベントを大切にしてくれました愛

これはお母さんありがとうの会heart


ホスピスのお庭で夏の花火大会LOVE


私が母に書いた誕生日ボードですハート


病院から頂いたお花や看護師さん達からのbirthdayカードなどマルキラ☆


私も若いWハート


クリスマス柊


白血病な母の肌は透き通る様に白かった。


亡くなる二ヶ月前。

自分から初詣に行きたいと。

白血病になってから最初で最後のお出かけです!!


この母が今の私の旦那を気に入り、私に勧めてくれたんですheart

この頃は酸素吸入も始まりましたが、旦那と会えると凄く喜んでましたキラキラ





そして、亡くなる前に、旦那にじゃなく、私に「ゆうちゃん、まさみ(旦那の名前)を宜しくね!」と言いました。

母が亡くなったのが3月で、その年の11月に旦那の肺がんが分かったから、母には当時の旦那がもう肺がんだったのは分かっていたのかもしれない。

母は血液検査をする度に、先生にいつ何が起こっても不思議ではありませんと言われる日々。

それくらい、母の血液はサラッサラで、立つことなんて、絶対出来ない位の状況だったみたいです。

けど、母は亡くなるギリギリまで、介助ありですが、ベッドから直ぐのトイレまで行ってました。

全てが奇跡だと。

最後の方は、傷め止めのモルヒネも要らなくなりました。

ただ、あれだけ毎日私を待っていてくれたのに、最後の日は誰も居ない時間に…

母は1人で旅立ちました。

だから、危篤とかで病院に行った事もありません。

いつも心構えはしていましたが、その日はあっけなくやって来てしまいました。

ただ、その日まで、やっぱり頑張って頑張って頑張って、生きてくれたのかな。

3月9日キラキラ

私達は、サンキューの日とよんでます。

母からの最後のメッセージ!!

みんなにありがとう…と。

お母さん、こちらこそ本当にありがとう!!

会いたいな、声聞きたいな…

6年経っても悲しいの全く変わらないけど、ちゃんと生きてます!!

これからも、母の背中目指して頑張って生きていきますWハート

みなさん、長々と読んで頂いてます本当にありがとうございましたh