インスタで見かけたが、ホリエモンこと堀江なんちゃらさんが、世の中の人々の読解力の無さについてテレビ番組か何かで言っていた。
とても納得した。
みんな、書いてあることは読むことはできる。けど、そこに何が書いてあるのかまでを理解できる人は少ない。
だけど、その読解力の無さを隠すことはできる。
たしかに、ツイッターとかのSNSを見ていると、ネットニュースのコメント欄などで、ニュースの内容を理解できていないようなコメントをよく見かける。
本をたくさん持っていれば頭のいいように見える。インテリぶることができる。
でも本当にその人がその数多くの本を理解できているかどうかは誰にもわからない。
私にとっては新しい視点で考えているのでとても新鮮な気分だ。
確かに、小学校や中学校を卒業すれば、大体の文章を読むことができる。
でも、思い返してみれば、クラスの中だけを見ても国語の成績なんてばらばらだった。
読むことはできても読み取ることができない人はきっとたくさんいたんだ。
そう考えると、今社会に出ている人の中にも、読むことができても読み取ることができない人はたくさんいるはず。
友達どうしでも、テレビ番組でも、いろんな人がいろんな事例について自分の意見を言っているが、ほんとにその人がその事例について読み取ることができているのかはわからない。
学校を卒業すれば能力が完璧になるわけではないのだ。
自動車学校を卒業すれば車を運転することができるようになるが、卒業した人すべてが車の法律を完璧に把握しているわけではないし、運転が上手なわけではない。
料理学校を卒業した人が料理の知識を完璧に持っているわけでもなければ三ツ星レストランのシェフになれるわけでもない。
読み取る、ということが今回のテーマだが、
では、読み取ることが苦手な人がたくさんいるこの社会ではどう生きればいいのか。
たぶん、読み取ることができる人は単純だ。
読み取りが苦手な人がたくさんいるということを理解し、世の中にあふれているたくさんの意見をうのみにしないこと。
そして、読み取ることができない人は、聞き取ることをすればいい。
堀江なんちゃらさんも言っていたが、読み取ることができなくても聞き取ることによって理解できる人がいると。
ただ、そのためには自分ができることとできないことを自分で把握しなければいけない。
そこに気付かせてあげるのが学校かもしれない。
成績を伸ばすだけが学校の役割ではなく、児童生徒ができること、できないことに気付かせてあげることも学校の役割なのかもしれない。
自分の得意、苦手を把握する、ということも資質・能力の一つなのではないか。
そんなことを考えた平日のティーブレイクタイムであった。