N side








夕食は牛丼を作った。




「いい匂いだな。」




ダイニングテーブルで
ノートパソコンをいじっていた櫻井さんが、顔を上げてくんくんと鼻を鳴らしている。



あまりにも微笑ましくて
つい目を細めてみていると
櫻井さんと目が合った。



「今夜は何?」
「牛丼にしようかと思って。あ、櫻井さんは紅しょうがどうしますか?」
「いいね、普通でいいよ。」



立ち上がってコンロ前のオレの横に立ち
お鍋の中をのぞき込まれた。



「いい色。もう、うめーな。」
「クスクス。匂いだけでですか?」
「そ。カズの料理は匂っただけで美味さがわかるよ。」



ふざけた顔をしてドヤる櫻井さんに
少しだけ呆れた顔を向けた。


前は、できなかったこと。




でも、こんな日常の些細なことまで
あなたとの時間を覚えておきたいから。
オレがあなたに出来ること
表現できることは、素直に伝えたい。


そう思えるようになった。



「そう言えば、智くんのカレーが少し残ってたよね。」
「はい。冷凍庫に1人分くらい入ってますよ。」
「それさ、牛丼と一緒に喰いてーかも。」
「え?…牛丼とですか?」
「そう。美味いもん2つ合わせたら、ダブルで美味しそうじゃん?」





へへっと楽しそうにしてる櫻井さんを見て
また、クスクスと笑みが零れる。


空気が緩む。



遠くない未来、オレは
このことを懐かしむのかな。



櫻井さんの、柔らかく弧を描いた目元に
惹き込まれるように

その瞳の温度に包まれると
櫻井さんからは、また
蕩けるようなキスを降らされた。



体の奥が仄かに熱くなり
息も乱れ始めると、
やっと櫻井さんから離された。




少し火照った顔を隠すように、冷凍庫へとカレーのタッパーを探しに行く。



「カレー、俺が温めとくよ。カズは料理して疲れただろ?」
「いえ、僕が温めます。」




だって、前の雨の日以降
櫻井さんの左足が重そうだから。

櫻井さんは何も言わないけど、
でもきっと、痛いんじゃないのかな。




「いいよ。お前は座ってて。」



押し通すわけでもなく
本当にオレのことを思って言ってくれた。


そう感じたからこそ『じゃあ、ちょっとトイレに行ってきます』なんて言えた。



雇用主に料理の残りを任せるなんて
家政婦失格なんだろうな。

でも、オレがあそこで言い張る方が変だし。




トイレより、オレの足は
櫻井さんの書斎に向かってて。



さっき見た手帳をこの目で確かめたくて。
書斎のドアノブに、手を掛けた。





別に悪いことをしてる訳じゃないのに
櫻井さんが廊下の向こうから、今のオレを見た所で何も問いただされることなんて何もないのに

それでも、オレは。




オレが今からやることは、潤くんとの約束を果たすためでもあるから、確認だけ。

そう、確認だけしたい。






さっきはデスクの上にあった年季の入った手帳は、恐る恐る開けた引き出しの1番上にあった。それをデスクの上に置いてスマホで写真を撮る。そのまま、潤くんにLINEを送った。






まだ、その時であって欲しくない。



そう思った瞬間、
胸の奥がキュッと痛んだ。





革の色は焦げ茶色だけど
所々引っ掻いたようなキズもあり
角が丸くなっている。


中身は……



櫻井さんの字だ。



2階で見たスケジュール帳に書いてあったあの字で、色んなことが書いてある。

人物像や関係……




パタリと表紙を閉じて
指で撫でるみたいに革の表面を攫った。

そして、そのまま
元あった場所へと静かに戻した。








……オレたちは、櫻井さんの手帳ってだけで
他には何も聞かされていない。



でも、こんな時に働くオレの勘は
意外と当たりやすくて
さっきから、胸の奥がチクチクと痛む。



宛てもなくガラス窓の前で立ち止まり
その窓に写った自分の顔を確認すると、
一気にカーテンを閉めきる。



なんて顔してんだ…。




その時、
潤くんからのLINEが届いた。