日本人はどこから?
日本に突如として現れる古墳時代。
大規模な土木工事があちらこちらで行われます。
それまで縄文人がベースとなり、大陸から弥生人が渡ってきて鉄器や稲作をもたらしたのだろうという信じられてきましたが、どうもそうではないらしい。
ゲノム解析が発達し、大陸から大量にある人々が押し寄せてきた、
というDNAの三重構造。
『邪馬台』と書かれているけれども、『やまたい』ではなくそのまんま『やまと』でしょ。
女王の台与でさえその表記は、臺與(とよ)、壱与・壹與(いよ)とその時代や写本により様々です。
ここでは『台』を『ト』と読ませています。
古代ヤマト朝廷がことあるごとに都を移したように、『クニ』自体一定の地域にとどまっていたわけではない。
そもそも『クニ』や領域は今のように首都を中心に、国境があるわけではない。
地理学では国境の概念として、『面』から『線』と時代とともに変化します。
国と国との境はなく、あの辺が何とかというクニ、
それがクニとクニを隔てるものが、広大な領域であり、国が分家することもあれば、移動することもある。
もちろん消滅することもある。
次第に国が拡大して、領域が接するようになり、『国境線』が生まれます。
日本の島々でさえ、人口は極めて希薄です。
無人地帯は無数に存在します。
滅ぼされた北イスラエル王国の失われた10部族でさえ、流浪しつつ各地でクニをつくっています。
土地を持たない彼らの糧は技能です。
しばし定住すれば農耕もします。鍛冶、機織り、石工…そして交易。
西のキリスト教下では金銭を扱う金貸しは卑しいとされ、金融業はユダヤ人に押し付けます。
そもそも古代の人々は部族集団であり、国という概念をもちません。
当時にしてみれば、大陸の奥地から来た人々も、九州南端の隼人や本州北端の蝦夷など、それらと違和感などなかったことでしょう。同じ日本の島々の人々でさえ言葉は違います。
東の中華では秦が『クニ』の体を整えます。得意の土木技術で万里の長城、巨大なお墓をつくります。
それらをつなぐと、シルクロードです。
そこに弓月の国があります。
その東の果ては、ヤマトです。
太古の人々は、移動・定住を繰り返し、意外な距離で交易しています。
新潟県糸魚川のヒスイも、信州の黒曜石も加工品として日本各地から出土されています。
秦も八幡も、秦(はた)もちろん羽田、波多野、肥田野、やはた、やわた、はちまん、うずまさ…
秦氏由来の八幡神社は日本で一番多い神社です。
同じく稲荷神社は第4位です。
弓月も百済も同様です。
たとえば、
後の武田氏は亡びたといいますが、その末裔は柿崎氏であり北海道では松前氏です。
対馬の人々は北の地で津島と名乗り、
四国の阿波の人々は関東で安房国をつくります。
現在、北海道には広島も伊達もあります。
人々は名を変え、命脈を繫ぎます。
基本は、部族集団です。
部族は移動します。
邪馬台国も変遷します。
ベースとなる縄文人でさえ、一時は定住しても、基本は移動です。
古代を考えるとき、現代の感覚を変えないと、考証を間違えます。