近代日本洋画の父とは黒田清輝をさしますが、

実はその先駆けは浅井忠です。

明治初期の西洋文明移入は試行錯誤の時代です。

お雇い外国人の選定も手探りです。

当時設立された工部美術学校。

と言っても、

図画工作は兵器をつくるための設計、戦地や建造物などを図式化できる能力の育成です。

絵画で招かれたのがイタリア人、フォンタネージです。

アントニオ・フォンタネージ「10月 牧場の夕べ」

彼はバルビゾン派に傾倒する、極めてオーソドックスな油彩画です。

彼から学んだのが浅井忠です。

浅井忠「収穫」

その後日本人がフランスやドイツに留学し、日本に西洋の最新式の洋画を持ち込みます。

その一人が、黒田清輝です。

彼の画風は印象派。

黒田清輝「湖畔」

暗い色調のフォンタネージとは正反対です。

印象派風の油彩画は明快で新鮮、日本人に受け入れられます。

黒田清輝は東京美術学校の教授となり、旧薩摩藩士の家柄が幸いしたかどうか、貴族院議員にもなります。

画壇では白馬会、後の光風会を立ち上げ、帝展を経て現在につづく日展の基礎を築きます。

一足先に洋画の先駆者であった浅井は時代遅れとなり、渡欧するも自らの時代錯誤にいっそう打ちのめされ、帰国後は京都に新しくできた美術学校、現在の京都工芸繊維大学に赴任します。

「明治美術会」を主導した彼に、東京での居場所はありません。

そこで推し勧めたのが、アールヌーボーを模した製品のデザインです。

同時に聖護院洋画研究所を開き、後に活躍する梅原龍三郎・安井曽太郎らを育てます。

弟子たちの活躍は現在国画会に引き継がれ、独立美術と並んで、日展と一線を画した在野画壇として、日本の美術界をけん引しています。

油彩画技法からみると、黒田の描き方は亜流です。黒田がたまたま留学した時期にフランスで流行っていた、スタイルのひとつにすぎません。が、これが、本場西洋の洋画として日本で主流になります。

実は浅井の描き方こそ、油彩画本来の描き方です。

西洋の正当な描き方です。

そのひとつが、「地と図」の関係から形をつくりだすことです。

これは自由奔放な表現と思われがちな、ピカソも同じです。ピカソが伝統的な技法の継承者といわれる所以です。

印象派は陰にも色彩があるという理論の元、明暗部かまわず絵の具を練りこみます。

これが黒田を通じて日本の洋画にひろまり、悪く言えば「ペンキ屋の絵」と評されます。

「地と図」の関係は、透明水彩をされている方は、無意識のうちに会得している技法です。この場合は明暗が逆になりますが。

 

文化・芸術も、権威主義や派閥のしがらみを取り除いてゆくと、本来の姿が見えてきます。

万太郎も、大学に勤務はしつつも、本質は自由人だからこそ、純粋な研究ができたのでしょう。