手塚治虫はお医者さんでもあるくらい博識な人です。
世界観がはるかに広がります。
が、それが災いします。
制作に没頭するあまり、自身の虫プロの経営が破綻します。
「売るほどある」という、アイデア豊富なのはいいですが、作品にまとまりがありません。
要は、どれも何が言いたい作品なのかがわかりません。
テレビアニメ「W3(ワンダースリー)」では30分枠の番組いっぱい、
登場するキャラクターと風景が映し出され、クラッシック音楽が延々と流れます。ストーリー展開やセリフは一切ありません。
見ているとそれなりに見入ってしまうのですが、終わってみると「あれは何?」
1960年代のテレビアニメ草創期、なにをつくり出していいのか分からない手探り時代の、いまだ謎です。
土曜日に放送されていた「鉄腕アトム」は突然終了します。
地球を救うため、太陽に突入するアトム。
アトム役の清水マリのお別れの声が残ります。
後日談で、スポンサーの予算不足で契約が続かず、番組が終わったと知ります。
雑誌で連載した「ワンサくん」
スポンサーは当時の三和銀行です。
これからは「性教育の時代だ」とスポコンマンガ最盛期の1970年代に発表した「不思議なメルモ」
原作・作画・プロデューサー…ほとんどが「手塚治虫」のテロップ。
いつのまにか消えます。
今度は逆に
「海のトリトン」原作はほんとうに手塚治虫?と思わせるくらいに虫プロと手塚治虫の名がありません。
制作は「アニメーションスタッフルーム」
プロデュースは西崎義展。
のちに彼はこの手法で「宇宙戦艦ヤマト」を大ヒットさせます。
このため手塚治虫は、
テレビ版「海のトリトン」(原題「青いトリトン」)を自作と認めていません。
同様に映画「宇宙戦艦ヤマト」は松本零士の作品とは認められていません。
手塚の経営手腕は?で、
虫プロ倒産後、手塚プロ、虫プロ商事と模索が続きます。
一方、虫プロで育った若い芽が各地で新天地を広げます。
瑞鷹エンタープライズ→日本アニメーション→スタジオジブリ
エイケン、東京ムービー、タツノコプロ、石森プロ…
漫画制作は個人の漫画家からプロダクションによる共同制作へと変容します。
作家とプロダクション経営の分業も確立します。
児童マンガ衰退の中、「ドラえもん」さえも小学館が終了を決めます。あとで復活しますが。
少年漫画で育った世代もそのまま大人になり「劇画」の時代へ。
雑誌マンガからテレビアニメ、さらに劇場版アニメへと進化します。
いつしか手塚治虫は過去の人になり、
平成となった直後の1989年2月、60歳で世を去ります。
手塚の壮大な世界観は、彼の脳内に遺されたままです。
その世界観はなぞです。
手塚治虫
画像は
手塚プロダクションHPより。