春過ぎて、夏まで過ぎて、とうとう秋がやってきた。センター試験まであと100日ほどだった。
僕は学校の授業が終わってから6時までは教室に残って勉強し、その後に地元の公民館の自習室で9時まで勉強した。
地元のパン屋さんでメロンパンを買い、パンの耳をサービスでもらい、公民館ではパンの耳をムシャムシャ食べながら、いつも世界史の勉強をした。
家は離婚してから貧乏だったので、先輩から貰ったかなり大きい制服をきて、ローファーも学校指定のものは高すぎて買えなかったのでイズミヤで買った訳の分からない色のローファーを履きながら、パンの耳を食べ、いつも世界史を勉強している姿は異様だったに違いない。
当時は他人に自分がどう映るのかなんて考えもしなかった。何とかなるであろうという考えとは逆に、何とかならなかった時の不安、1年先が見えないことへの焦りが支配していた。僕が出来ることは勉強することだけだった。
地元のの公民館から家までは3キロくらい離れていた。しかも帰り道は登り坂だった。肌寒い秋の夜、自転車を押しているとき、金木犀の香りが鼻につき何とも言えない不安感に襲われ、また明日彼女に会えたら嬉しいなあという期待を胸にしまいながらゆっくり歩いて帰った。
10月は受験生には大変な月だった。まず、高校最後の定期テストがあった。気を抜く人も多かったが、彼女は定期テストも手を抜かなかったので、僕も手を抜けなかった。
また、たくさんの模試があった。学校指定の模試が某予備校の記述模試とマーク模試だった。記述模試は某私立大学で受験した。だが、その日はその私立大学の学園祭とかぶっていたので、とても騒がしく、全く集中が出来なかった。僕のクラスのほとんどの人の偏差値が10ほど下がった。僕も国語が200点満点中45点で偏差値も45だった。
マーク模試は別の私立大学で受けた。文系国公立コースだったので6教科7科目を1日でやらなくてはならず、しかも狭い教室に高校生がすし詰め状態だったので、死ぬかと思った。でも成績はかなりよかった。世界史は勉強した甲斐あって、92点だった。他の教科も数学以外はぼちぼちで総合で75%の得点率だった。彼女の成績にもかなり接近することができ、大満足だった。
他にも有名な国公立を受ける人の為に各大学個別のオープン模試があったが僕は受けなかった。
彼女は神戸大学のオープン模試でA判定をとっていた。かなりの差を感じ、悔しかった。
当時好きだった人は本当に頭がよかった。

クラスでは常に上から5番以内だったし、模試では毎回成績優秀者に名前が載るような人だった。
彼女は最終的に神戸大学に進学した。

僕は彼女に少しでも近づきたいと思った。いや、追い越したかった。努力は好きではなかったけれど、好きな人に負けているのは悔しかったから、某予備校の模試の結果が返ってきてからはとにかく努力した。
夏休みは朝8時30分から夕方6時まで学校の自習室が開いていたので、毎日1番早く行ってお気に入りの席に座り、一番遅くまで、昼休み以外は机にかじりついた。
時々、彼女が僕の近くの席に座ったので、そんな日は勉強に集中出来なかった。そんな時はよくマミーを片手に夏休み中の学校内を散歩した。山の中にあったので万緑の景色が美しかった。彼女がトロンボーンの練習をしていた屋上からは野球部の練習の声が聞こえた。体育館の横の坂をアメフト部のゴツい男達が坂道ダッシュをしていた。
そんな風景を見ながら将来について物思いに耽るのが大好きだった。少し不安になるけれど、心地よい不安定さが身に染みた。1秒先の未来のことすら分からなかったけど、また、明るい未来なんて想像できなかったけど、何となく時間は経って、それとなく生きていける気がした。この予感は間違っていなかった。あれから4年がたったけれど、僕は何となく生きている。
まあ、蝉の声が五月蝿い中、こんな風に時間を過ごし、英気を養ってまた自習室に戻るのだった。
アブラゼミの声がつくつくぼうしの声に変わる頃、某予備校の模試を受けた。夏休みの成果が試されるものだったが、結果は普通だった。相変わらず、学年で上の下の下くらいの成績だった。
嫌いだった数学に足を引っ張られていた。数学が伸びなかったのは、僕が勉強しなかったからだが、腹いせにミスターオクレに似た数学の先生の授業はトイレットペーパーで僕の机の周りをバリ封した。毎時間、バリ封に用いたトイレットペーパー全てに「これはあなたのトイレットペーパーですか、いや違います」と書かれた付箋が貼られてあり、面白かった。付箋の無駄使いだった。
数学を避けたいという理由で僕は高校2年生から、文系国公立コースに在籍した。42名で男子対女子の比率は1:3だった。
このクラスは本当に頭の良い人が集まっていた。結果から言って、1年間の浪人も含めると京大1人、阪大2人、慶應、早稲田2名ずつ、神戸大3人、横浜国立1名、その他の国立大学10数名、僕を除いた全員が関関同立に少なくとも1校は合格した。
ご想像の通り、変な人が多かった。ナポレオン3世をリスペクトする人や、発売したてのiPodにベートーベンやワグナーを入れてやたらゴツいイヤホンで鑑賞している人、電車の写真を撮るために、線路内に侵入し補導された人をはじめ、とにかく変な人が多かった。
男子が少なかったので一部を除いた男子全員が仲良かった。
今でも僕の親友と言えるのはこのときの仲間だ。
僕が受験を意識しはじめたのは高校3年生の7月頃からだ。勿論それまでも学校の行事で高校1年生のころからセンター試験の問題を解かされていたが、真剣になり始めたのは部活を引退してからだ。

高2の1月に受けたマーク模試では偶然センター試験1年前にも関わらず得点率が70%で成績優秀者にも名前が載った。そこから部活の引退試合に向けて一生懸命だったので、一切勉強しなかった。部活の引退試合は6月初旬だった。個人戦はそこそこ上がれたが、団体戦はあっけなく終わってしまい、しぼみかけの風船のような気分になってしまった。4月頃から毎日地元の公民館の自習室に通い始めたが、身が入らずケータイでテトリスをするか、近くのパン屋さんからパンの耳をもらって食べて過ごすか、寝てすごすしかなかった。
しぼみかけの風船状態になってからも、部活の代わりに勉強という気にはならず、パンの耳を食べる生活を送っていた。
そんな状態で6月の末に某予備校のマーク模試をうけた。結果は6割に満たなかった。この時期にしてはいい結果とは思えなかった。何故なら僕が当時好きだった人は成績優秀者に名前が載っていたから。



この時から僕のストイックで過激な受験勉強が始まった。