昨日は、寝る前に、アストラル体で覚醒することを教えてください、とお願いしてから寝ました。

 

 

 

すると、アナハナアナハタという声

 

紅葉狩りのように美しいカラー

 

色のチューニングのトレーニング

 

華厳というイメージ

 

 

 

 

華厳経のなかには、「浄心こそ諸仏を見る」(菩薩雲集讃偈品)という言葉がある

 

夢日記で有名な明恵上人が、華厳経で有名‼️

 

根幹となる『十地経』や『入法界品』は、竜樹以前に成立したものといわれて いる

 

秘密曼荼羅十住心論. ◇心の進化、その十段階のプロセス◇ | by Project Ark | Cre888 | Medium

 

20歳頃に読んだ空海の本に、書いてありそうです。

 

 

第9地 華厳

 

華厳経のなかにも般若は生きている。般若の智は愛欲を空ずることによって、大 悲となって実践性をもつわけであり、智と悲によって華厳経の壮大なドラマは構築されて いる

 

愛欲って、引き寄せ

 

華厳経をひもとくと、そこには限りなき光明に包まれ、荘 厳をきわめた世界の様相が、いたるところに、くりかえし説かれている

 

「華厳経のほんとうの名前は『大 方広仏華厳経』(mahA-vaipulya-buddha-avataMsaka-sUtra)であるが、大方広とは仏につけた 形容の言葉で「広大なるほとけ」という意味であり、法華経が「法」を説くのに対し、華 厳経は「仏」を説くのである。それは人間的な感覚や、人間の少さな悟性によって理解で きる程度の矮小化された仏を説くのではなく、時間的にも空間的にも無限であるような仏 を説く。それはわれわれの分別智を越えた無分別智によってとらえられた仏でなければな らぬ。

華厳経に現われた無限広大な世界観はたんなる夢物語や空想の世界ではない。宗教体験 にうらうちされた宗教的実在である。華厳経は海印三昧という宗教的体験のなかに入った 仏陀の正覚の内容を説いたものである。仏の正覚は生きとし生けるものの浄眼を開くとと もに、世界万有を荘厳する。正覚の立場にたてば、客観的な事実の世界も、たんなる客観 的世界ではなく、それはそのまま悟りの領域に転じる。現実の世界が真理の領域としての 法界に転じてゆくところに『華厳経』の世界は開かれてゆく」

 

⤴︎ ダスカロスの練習ではないか!

現実の観察の重要性

 

「仏の正覚にもとづいて華厳経の世界観が成りたつといったが、この仏の正覚とは、われ われ人間世界を離れた超越的な天国をいうのではない。凡夫に即して現成している世界を いう。華厳経のなかには、「浄心こそ諸仏を見る」(菩薩雲集讃偈品)という言葉があるが、 われわれの心が浄らかな仏心になりきるとき、仏を見ることができるのである。なにも見 仏の体験とはむづかしいことをいうのではない。心を浄らかにすることなのだ。それでは 浄心になりきるにはどうしたらよいか。それは自我を空ずることだという」

 

おお、見仏

 

自我を空ずると、浄心になろ。すると見仏する。それが正覚

 

正覚、、正しい認識、、求めていたもの

 

「世尊が口および一つ一つの歯の間から、無数の 光明を放って、十方の世界を照らし、その光に照らされたボサツ衆は、蓮華蔵世界を見た。 その蓮華蔵世界のまわりには、無数の世界が存在し、その一つ一つの世界の中には、おの おのの仏が安座している。さらに一つの蓮華蔵世界を中心として、無限の蓮華蔵世界が、

おのおのの仏を中心として存在している。」

 

蓮華、、蓮の花🪷、華、チャクラ、無数のチャクラ、螺旋、紐

 

「仏道を修行する者は、先づ須らく仏道を信ずべし。」

 

神への愛

バクティヨガ

 

「善財童子は、最後に弥勒・文殊・普賢の三ボサツを尋ねて、ボサ ツ行を求めるのに必要な心がまえを問うのであるが、それについて弥勒は「浄らかな真心 と知恵が大切である」と答える。」

 

「善財童子は弥勒ボサツに対して合掌し て、「唯、願わくば、大聖、楼観の門を開き、我をして入るを得しめよ」と願をかけるや、 弥勒の弾指によって門は開かれ、善財童子は門の中に入り、華厳法界を見ることができた。」

 

弾指、、催眠術みたい。

 

「仏道を信ずるとはどういうことかというと、自分は本来、仏道の真只中に あって、迷いもせず、惑いもなく、そこに安心を決定しておけば、修行をしたからといっ て自己のいのちは増すわけのものでもなく、煩悩がおこったからといって、自己の価値が 減ずるのでもないのだ、という絶対信の中に安住することが「信」の本質である」

 

煩悩ok

自己肯定

 

「絶対信の中に安住することが「信」の本質であるといって いる。

絶対信に安住するからといって、修行が不必要なのではない。絶対信は無限の求道をう らうちするものであると同時に、無限向上の求道こそ絶対信を証するもの」