(次男はこの言葉を一番嫌がっていたのにブログに書いてごめんね)
中学1年の冬に「もう何もかも嫌だ。◯んでしまいたい」 と言い出し不登校になりました
私は、我が子が世間の一般的なレールから外れるのが怖くて不安でパニックになりました。
どうしたら学校に復帰できるのか、あちこち相談したりネット検索したり、心療内科で元気になる薬を出してもらったり。
でもみんな口を揃えて「今はゆっくり休ませて下さい」って(涙)
それから22年間、紆余曲折いろいろありました。
私は「不登校」や「引きこもり」の親の会や支援施設などで学び続け、頭では「一番辛いのは次男の方。気が済むまでゆっくり見守ろう」と理解したつもりでも、毎日自宅でゲーム三昧の姿を見るたび心の奥底では「いつになったら元気になるの?親を困らせてホント迷惑」とイライラ。
長い間、何も成長できない未熟な母親でした。
それでも次男なりにもがき苦しみ、19歳の頃に見事復活!
アパレルメーカーで働き始めました。
元々人懐っこくて人に気遣いのできる子なのですぐに職場に溶け込み、中学時代の地元の友人達とも再び交流が始まり・・・
もう大丈夫かな?って安心したのも束の間。
1年半後には職場の人間関係で傷つき恋愛もうまく行かずダウン。
せっかく再構築した友人関係も全てシャットアウトして、そこから8年間完全な引きこもり生活になりました。
もちろん一番辛いのは次男ですが、私も絶望しました(相変わらず未熟な母です)
10代の頃から元気になりたい一心で服用していた向精神薬も効果が出ず量が増えるばかり。その頃には「うつ病、不安障害、強迫性障害」などいくつもの病名がついていました。
仕事で挫折してから「もう薬に頼りたくない。かえって頭がおかしくなる」と本人の独断で一気に断薬⬅️これは絶対やってはいけない事でした。本来は医師の指導の元少しずつ減薬すべきでした。当然激しい目眩や吐き気、頭痛などで数年寝込みました。
その後もいろいろありましたが、29歳で再び復活!!
運転免許取得や高卒認定試験に合格、昔の友達関係も再復活(嬉)
友達の紹介で彼女もできました(感激)
彼女には正直にうつ病で無職と伝えたにも関わらず「それでもいい」と言ってもらえて、ようやく次男にも青春がやって来ました(感涙)
とはいえ心身の不調は続き外出した翌日は疲れて寝込む日々で、結局一度は止めた向精神薬にまた頼る事になりました。
少量服用して活動的になれたらと祈るような気持ちでした。
薬の効果もあってか、いくつかの仕事の採用試験を受けました。
でも面接での感触は良くても結局は履歴書の長いブランクを問われ採用される事はありませんでした。
その度にひどく落ち込み「もう俺はダメだ。◯にたい」と嘆きました。
現在、長期引きこもりや8050問題など社会問題になっていますが、現実は本当に厳しいです。
当事者もそれを支える家族もみんな心を痛めて前を向いて取り組んでいてもなかなか報われる事は少ないのです。
2年前の6月頃、4年間付き合った彼女から別れを告げられました。 30歳間近になった彼女は「結婚して子供を産みたい」と。でもそれを叶えてあげられない次男。当然の別れでした。
私の前では「今の俺じゃ結婚できないし仕方ないさ」と割と平然としていましたが、本当は悲しくて悔しかったよね(涙)
それでもまた立ち上がり昨年の春からメンタルクリニックの「リスタートプログラム」に参加したり本当に良く頑張りました。何をやっても否定される世の中に抗って本当に偉かったね。
でも昨年の夏頃から、かなり心が不安定になり「やっぱり何をやってもうまく行かない。◯ぬしかない」と毎日毎日言うようになりました。
私はメンタルクリニックで相談したり引きこもり専門の心理療法士から「親としてできる事」を学び、次男の◯にたい気持ちを頭から否定せず寄り添い「あなたの◯にたい気持ちはよくわかるよ。でも私とお父さんにとっては大事な大事な息子だから絶対◯んでほしくないよ」と伝え続けました。
【親に本音や泣き言を言える関係は素晴らしい。◯にたい➡️生きたい、苦しみをわかって欲しいと訴えているのです】という教えを信じて「私が次男の気持ちに寄り添って絶対回復させてあげる!」なんて、浅はかな希望に自己満足していたのでした。
次男の悲しみいたたまれなさ、35歳で職もなく人生への絶望感。 生きていても苦しいだけ。
私は知っていたつもりでした。でも本当は何もわかっていなかった。
救ってあげられなかった。
ごめんなさい。あなたをこんな苦しい人生にしてしまって。
「明けない夜はない」
座右の銘にして来ましたが、今は大嫌いな言葉になりました。