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Tom Horn 


Steve McQueen -6-




生涯における来日回数は2回。初来日は1966年『砲艦サンパブロ』のプレミア時。当時の妻のニールも帯同している。ただし次の会場が香港であったため、日本での滞在時間はわずか20時間であった。2回目は1978年の肖像権訴訟時(後述)である。

《遺産》
マックイーンの人気は不変である。他の死去した有名人のように商業的に飽和することを避けるため、彼のイメージを使用するライセンスは制限されている。2007年の時点で、マックイーンの財産は死去した有名人が稼ぎ出す財産のトップ10に入っていた。
2007年4月、マックイーンはナショナル・カウボーイ・アンド・ウェスタン・ヘリテージ・ミュージアムの式典で、偉大な西部劇俳優の殿堂入りした。
1999年11月、マックイーンはオートバイ栄誉の殿堂入りした。彼は『栄光のライダー』の製作資金を調達し、一連のオフロードライダーを支援し、オートバイに対する一般のイメージ強化に貢献しているとされた。

未完成のストーリーボードとノートを元にし、マックイーンが死の前に撮影したフィルムが、マックGの製作会社であるワンダーランド・サウンド・アンド・ヴィジョンによって生産される予定であった。『ユカタン』は「壮大な冒険の強盗」映画と言われ、2013年のリリース予定であったが、2016年2月現在発売されていない。ロバート・ダウニー・Jrと妻のスーザン・ダウニーの製作会社、チーム・ダウニーは『ユカタン』を映画として公開することに対する関心を表した。

インディアナ州ビーチグローブの公立図書館はマックイーンの80回目の記念日を祝うために2010年3月16日に正式にスティーブ・マックイーン生誕地コレクションを公開した。

2005年、『TVガイド』誌は「史上最もセクシーなスター50名」のリストでマックイーンを26位にランクした。

2012年、マックイーンはアスベスト病認識機構(Asbestos Disease Awareness Organization, ADAO)からウォーレン・ジヴォン・トリビュート・アウォードを受賞した。

2015年のドキュメンタリー『スティーヴ・マックイーン その男とル・マン』は、1971年の『栄光のル・マン』でのマックイーンと、その製作についての探求を明らかにしている。同作では息子のチャド・マックイーンと元妻のニール・アダムスがインタビューに答えている。

《アーカイブ》
アカデミー・フィルムアーカイブはスティーブ・マックイーン-ニール・アダムスコレクションを収納している。同コレクションには個人のプリントやホームムービーが収められている。

《コマーシャル》
1973年、ホンダ『エルシノアCR250』のCMに出演している。この出演については、ホンダのスタッフがテストしているところにたまたまマックイーンが遊びに来て、このバイクを気に入ったことから実現したという。
1998年、ポール・ストリートがフォード・プーマのコマーシャルを製作した。場面は現代のサンフランシスコで、『ブリット』のテーマ音楽が使用された。マックイーンのアーカイブ・フィルムがデジタル処理で挿入され、彼がプーマを運転しているように編集された。プーマのナンバープレートは『ブリット』でファストバック・マスタングが付けていた物と同じ物で、彼はガレージでマスタングの隣にプーマを止め、立ち止まって意味ありげに角に置いてあるオートバイを見ると、それは『大脱走』で使用された物とよく似たオートバイであった。
2005年、フォードは再び2005年型マスタングのコマーシャルにマックイーンを使用した。コマーシャルではトウモロコシ畑に農家の男性が曲がりくねったレースコースを造り、スタートラインに新型マスタングを停車させる。畑の中からスティーブ・マックイーンがやってきて、男性はマックイーンにキーを投げ渡す。マックイーンは新型マスタングでコースに走り出す。マックイーンの映像は体の部分(ダン・ホルステン)とデジタル処理で作成された。フォードは俳優の財産をライセンスするエージェントのグリーンライトからマックイーンの映像を使用する権利を得た。支払った金額は明らかにされていない。新型マスタングは劇中と同じモスグリーンにペイントしチューニングを施した『ブリット』仕様も発売された。

《肖像権訴訟》
1971年の『栄光のル・マン』の日本での宣伝に際して、タイアップ企業となった松下電器産業(現・パナソニック)とヤクルト本社が映画のスチルやフィルムを製品(松下はラジオ、ヤクルトは乳酸飲料「ジョア」)の広告と組み合わせた宣伝を自分の承諾なしにおこなったとして、この両社および配給会社の東和、広告制作者の電通を相手取り、肖像権侵害の損害賠償として100万ドル(公開当時のレートで3億6千万円)を求める裁判を、1973年に日本の東京地方裁判所に提訴した。
マックイーンが裁判を起こしたのは単に肖像を結果として無断使用されたからというだけの理由ではなかった。彼が1978年に日本の裁判所に出廷して証言したところによると、乳酸製品(証言では「ヨーグルト」と表現)は自分が好まないもので、本来なら絶対に引き受けることがない仕事であること、松下電器のラジオについては自分は商品の説明を受けておらず、それに対する責任を引き受けることができないからだと述べている。
この裁判は1980年11月10日に判決が下された。判決ではタイアップ広告の手法は広く映画の宣伝において一般に認められているもので、マックイーンの代理店と東和の間の契約条項の範囲内であるとした。このため、東和側が承諾の必要性を検討する注意義務はなく、過失を問うことはできないと認定し、マックイーン側敗訴の判決を下した。

《メモラビリア》
マックイーンが1968年の『華麗なる賭け』で着用した青いサングラス(ペルソール714)は2006年にロサンゼルスのボーナムズ・アンド・バターフィールズオークションで70,200ドルで落札された。同オークションでは彼のオートバイコレクションの1台、1937年型クロッカーが世界記録となる276,500ドルで落札されている。2007年8月16日にはマックイーンが所有していたメタリックブラウンの1963年型フェラーリ・250GTベルリネッタ・ルッソが231万ドルで落札された。2006年に売却された3台のオートバイを除いて、マックイーンのオートバイコレクション130台は彼の死から4年後に売却された。『栄光のル・マン』のオープニングシークエンスに登場した1970年型ポルシェ・911Sは、2011年8月にオークションで135万5000ドルで売却された。ロレックス・エクスプローラーII(1655)(時計コレクターの間でロレックス・スティーブ・マックイーンとして知られる)、ロレックス・サブマリナー(5512)(マックイーンがプライベートで着用している場面がしばしば撮影された)は、2009年6月11日にオークションで234,000ドルで落札された。これは世界記録であった。マックイーンは左利きであったため、腕時計は右手首に付けていた。
マックイーンはタグ・ホイヤーのアンバサダーを務めた。1970年の『栄光のル・マン』で彼は青のモナコ1133Bを着用した。それは腕時計コレクターの間でカルトなステータスを持つに至った。彼が着用したタグ・ホイヤーは2009年6月11日のオークションにおいて87,600ドルで落札された。タグ・ホイヤーは現在もモナコのプロモーションにマックイーンのイメージを使用している。
2009年からトライアンフ・モーターサイクルはマックイーンの財産管理団体からの認可を受けて、マックイーンをフィーチャーしたトライアンフ・ブランドの一連の衣類を販売した。それは特に彼が参加した1964年のISDTに関するものであった。
イギリスの衣類ブランド、バブアーはスティーブ・マックイーンコレクションを発売した。それはかつてマックイーンがバブアーのオートバイジャケットを所有していた事実に基づく。
イギリスのポップ・バンド、プリファブ・スプラウトは1985年6月にセカンドアルバム『スティーヴ・マックイーン』をリリースした。アメリカ合衆国ではマックイーンの財産管理団体との法的争いのため、『Two Wheels Good』に変更された。

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An Enemy of the People 


Steve McQueen -5-

《私生活》
1972年にアラスカで撮影された"マグショット"。マックイーンは、飲酒運転で逮捕された際、その写真撮影でピースサインを行い、公権力を挑発した。



ニューヨークでステラ・アドラーの学校に通う間、マックイーンはジア・スカラと交際していた。1956年11月2日に彼は女優のニール・アダムスと結婚した。アダムスとの間には娘のテリー・レスリー(1959年6月5日 - 1998年3月19日)、息子のチャド(1960年12月28日生)がいた。マックイーンとアダムスは1972年に離婚した。自叙伝「My Husband, My Friend」でアダムスは結婚生活が破綻をきたしていた間の1971年に彼女は流産したと述べている。
1973年8月31日、マックイーンは女優のアリ・マッグロー(『ゲッタウェイ』で共演)と結婚した。しかし、この結婚生活は1978年の離婚で終わった。マッグローはマックイーンとの間にできた子供を流産している。
1980年1月16日、その死の1年足らず前にマックイーンはモデルのバーバラ・ミンティと結婚した。マックイーンの4人の孫のうちの1人は、俳優のスティーブン・R・マックイーン(『ヴァンパイア・ダイアリーズ』のジェレミー・ギルバート役で最も有名)である。
1971年から1972年、アダムスと離婚しマッグローに出会う前の間に、マックイーンは『ジュニア・ボナー』で共演したバーバラ・リーと関係を持っていた。彼女は妊娠し、中絶している。
女優でモデルのローレン・ハットンは、1960年代初期にマックイーンと関係を持ったと語っている。
マミー・ヴァン・ドーレンはマックイーンと関係を持ち、彼と幻覚剤をためしたと主張した。
マックイーンは毎日2時間の運動が日課であった。それはウエイトリフティングと5マイルのランニングが含まれた。
マックイーンは各種の薬物を使用していたことで知られていた。ウィリアム・クラクストンは彼がほぼ毎日マリファナを吸っていたと語っている。
伝記作者のマーク・エリオットは、彼が1970年代初期に相当量のコカインを使っていたと主張している。そして、彼はヘビースモーカーでもあった。マックイーンはしばしば過度に飲酒し、1972年にはアラスカのアンカレッジで飲酒運転のため逮捕されている。
チャールズ・マンソンの信者が1969年8月9日にシャロン・テートの自宅でテートとジェイ・セブリングを含む5名を殺害した。テートとセブリングはマックイーンの友人であり、マックイーンも犯人の潜在的標的であったと報じられた。最初の妻によると、マックイーンはいつでも人前で拳銃を携帯し始めるようになり、セブリングの葬儀でも携帯していた。殺人の2か月後、警察は殺人の対象者リストを発見し、その中にはマックイーンの名があった。その結果、マックイーンの会社はマンソンの脚本を拒絶した。2011年にセブリングが事件当日にテートの家で行われたパーティーにマックイーンを招待していたことが明らかにされた。マックイーンによると、彼はパーティーに参加しようとしてガールフレンドを誘った。しかし、彼女はパーティーの代わりに自宅で親密に過ごすことを提案した。それによって彼は命を救われることになった。ちなみにこのパーティには、パラマウントの重役ロバート・エヴァンズも誘われていた。

マックイーンは映画の出演に同意した際、スタジオに大量の無料アイテム(例えば電気カミソリ、ジーンズやその他のアイテム)を要求するという変わった評判を持っていた。マックイーンはこれらのアイテムを、自身が10代に過ごしたボーイズ・リパブリックの矯正施設に寄付していたことが後に明らかになった。マックイーンはしばしば施設を訪れ、生徒達と時を過ごし、ビリヤードをしたり自身の経験を話したりしていた。

マックイーンと『大脱走』で共演したジェームズ・ガーナーはお互いにレースに対して関心を持っていたことから親友となった。ガーナーはマックイーン宅の下手に住んでおり、マックイーンは回想している。「私はジムが自宅できちんとしているところを見ることができた。花は手入れされ、庭には紙くずも無く・・・芝はいつも刈られていた。それで、私は彼をいらつかせるため、彼の通り道にビールの空き缶を投げ捨て始めた。彼は家を出ると、道をきちんときれいにしなければならず、全ての空き缶を持って家に帰った。犯人が私だと分かるまで、彼は長い時間がかかった。」

マックイーンの3番目の妻、バーバラ・ミンティは自著「Steve McQueen: The Last Mile」で、マックイーンが晩年に福音主義に改宗したことについて述べている。彼が改宗したのは飛行インストラクターのサミー・メイソン、その息子ピートと、バーバラの影響を受けたためであった。マックイーンは地元のヴェンチュラ宣教師教会に出席し、彼の死の直前には福音伝道師のビリー・グラハムが訪ねてきた。

《病気と死》
マックイーンは1978年に持続性の咳に悩まされるようになった。彼は禁煙し、抗生物質による治療を受けたが改善できなかった。息切れはより顕著に増加し、『ハンター』撮影後の1979年12月22日に精密検査で胸膜中皮腫(既知の治療法がないアスベスト露出と関連した癌)が発見された。数ヶ月後、マックイーンは医学インタビューで、彼の状態はアスベスト暴露が原因だとした。マックイーンはアスベストが映画スタジオの防音材に使われたり、レーシングドライバーのスーツやヘルメットに含まれていると信じていた。しかし彼は、海兵隊で兵員輸送船のパイプからアスベストを除去する際に大量に曝露されたことが病気の直接的な結果であったのでは無いかと考えた。
1980年2月までには広範囲にわたる転移が発見された。彼は病状を秘密にしようとしたが、「ナショナル・エンクワイヤラー」誌は1980年3月11日にマックイーンが「末期癌」に罹っていることを明らかにした。7月にマックイーンは、アメリカの医師達が彼を延命させる方法は何も無いと話した後、非標準的な治療法を受けるためにメキシコのロサリトビーチに向かった。マックイーンはウィリアム・ドナルド・ケリーの治療を求めたため、メキシコへの旅行は論争となった。ケリーはコーヒー浣腸、シャンプーによる頻繁な洗浄、牛や羊の生きた細胞を含んだ液体の毎日の注入、マッサージ、レートリルを用いたゲルソン療法のバリエーションを進めており、主流の医師からは典型的な偽医療だと非難されていた。マックイーンは3ヶ月間のメキシコ滞在で、ケリーに対して1ヶ月に少なくとも40,000ドル(現在の119,000ドル)の現金を支払った。ケリーが持っていた唯一の医療ライセンスは(1976年に取り消されるまで)歯列矯正のみであった。マックイーンが患者であったことが明らかとなり、ケリーの治療法は従来の新聞やタブロイド紙においてセンセーションを引き起こした。
マックイーンは10月上旬に帰国した。癌の転移にもかかわらず、ケリーはマックイーンが完全に治癒し通常生活に戻ると公的に発表した。マックイーンの病状はすぐに悪化し、「巨大な」腫瘍が腹部に生じていた。
1980年10月下旬、マックイーンはメキシコのチワワ州シウダー・フアレスに向かった。肝臓に腫瘍(およそ5ポンドの重さ)が発見され、アメリカの医師からは心臓が手術に耐えられないと警告を受けたにも関わらず、摘出手術を受けるためであった。マックイーンは「サム・シェパード」の偽名でフアレスの小さなクリニックに入院した。クリニックの医者とスタッフは彼の正体を知らなかった。
フアレスのクリニックで腹部と首の多数の転移性腫瘍を除去する手術を受けた12時間後、マックイーンは1980年11月7日午前3時45分に心停止のため死去したという。50歳であった。
「エルパソ・タイムズ」によると、彼は睡眠中に死去したという。
ヴェンチュラ宣教師教会のレナード・デウィットはマックイーンの追悼式を統轄した。
マックイーンは火葬に付され、遺灰は太平洋に散骨された。
“LOP RABBITS as pets”(意訳『ペットとしてのロップ・ウサギ』)によると、マックイーンは死期間近の晩年を動物介在療法で用いられるロップイヤー・ウサギの一種であるフレンチ・ロップ(耳が垂れた大型のカイウサギ)とともに過ごしたという。

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The Getaway


Steve McQueen -4-

マックイーンはディヴィッド・マレルの1972年の小説『一人だけの軍隊』(原題:First Blood)の映画化が発表されると、「ジョン・ランボー」のキャラクターに対する関心を表した。しかしプロデューサーはマックイーンの年齢を理由にそれを拒絶した。



1976年には『ボディガード』(ダイアナ・ロスと)への出演を打診された。しかし、映画はマックイーンの死後まで制作されなかった。(後にケビン・コスナーとホイットニー・ヒューストンで映画化)
『ブラッディ・ガン』の計画は1974年初頭に始まり、マックイーンの主演が考えられていたが、製作開始は1980年となり、その頃にはマックイーンは病床にあったため、トム・セレックが主演となった。
マックイーンは『レイズ・ザ・タイタニック』の主演もオファーされていたが、脚本は平凡であると感じられた。



『タワーリング・インフェルノ』出演後にアーウィン・アレンと契約し、1980年に続編への出演を打診されたが、既に病床にあった。映画化は廃棄され、アレンはポール・ニューマン主演で『世界崩壊の序曲』を製作したが、興行的に大失敗した。マックイーンは『タワーリング・インフェルノ2』を辞退した直後に死去した。

《スタント、レース、飛行機》
マックイーンは熱心なオートバイとレースカー狂であった。映画の中で車を運転する機会があれば、彼は自身のスタントを行い、その中には『ブリット』におけるカーチェイスや、『大脱走』のオートバイチェイスが含まれた。『大脱走』の鉄条網を飛び越えるシーンでは保険の関係もあってバド・エキンズが代役を務めたが、マックイーンは650ccのトライアンフ・TR6トロフィーをかなりのシーンで運転している。スタントライダーとマックイーンの技量の差を見つけることは難しいが、編集されている部分で、マックイーンがドイツ兵の制服を着ている部分では別のオートバイを運転している。『ブリット』の運転シーンのおよそ半分はローレン・ジェーンズが担当した。

マックイーンとジョン・スタージェスはF1レースについての映画『Day of the Champion,』を製作する予定であった。しかしマックイーンは『砲艦サンパブロ』の撮影が遅れ、多忙であった。彼らはドイツのニュルブルクリンクとの契約があり、ジョン・フランケンハイマーがそこで『グラン・プリ』の撮影を行った後、リールはスタージェスに引き渡された。フランケンハイマーは予定でリードしており、マックイーンとスタージェスのプロジェクトは取り消された。

マックイーンはプロのレースカー・ドライバーになることを考えた。1961年にはイギリスツーリングカー選手権の第7戦、ブランズ・ハッチにBMCのミニで参加、3位でフィニッシュしている。
1970年のセブリング12時間レースではピーター・レブソンと組んでポルシェ・908/02をドライブ、2週間前にオートバイの事故で左足を怪我していたにも関わらず、3リッタークラスで優勝し、総合ではマリオ・アンドレッティ/イグナツィオ・ギュンティ/ニノ・ヴァッカレラ組の5リッターフェラーリ・512Sに23秒遅れの2位であった。このポルシェ・908/02はマックイーン自身のソーラー・プロダクションから『栄光のル・マン』用のカメラ車として1970年のル・マン24時間レースにエントリーした。
マックイーンはジャッキー・スチュワートとポルシェ・917をドライブしたがったが、映画の後援者はその場合サポートから手を引くと主張した。ル・マンで24時間ドライブするか、映画を製作するために夏の間ドライブするかを選択しなければならなくなり、マックイーンは後者を選択した。

マックイーンはオフロードのオートバイレースにも参加し、しばしばBSA・ホーネットを走らせた。彼はまた、1970年のロンドン-メキシコラリーにブリティッシュ・レイランドチームのコドライバーとしてトライアンフ・2500PIで参加する予定であったが、映画の契約のためそれを断念しなければならなかった。彼の最初のオフロードバイクは、エキンズから購入したトライアンフの500ccであった。マックイーンは西海岸で行われたオフロードレースの多くに参加し、その中にはバハ1000、ミント400、エルシノア・グランプリなどが含まれた。

1964年、マックイーンとエキンズは東ドイツのエアフルトで開催されるインターナショナル・シックス・デイズ・エンデューロのシルバーベース・カテゴリーに参加する初の公式アメリカチームの4名のライダー(プラス1名がリザーブ)に加わった。「A」チームは8月末にイングランドに到着し、使用する649 ccと490 ccのバイクをトライアンフのファクトリーから集め、オフロード用に改造した。当初古くからのイギリスのオートバイディーラーに輸送の手配を依頼したのが期待外れとなり、トライアンフのディーラーであったH&Lモータースが適当な車両を供給するのに踏み出した。チームはイギリスの臨時マネージャーと共にドイツに到着すると、「B」チームはヨーロッパ在住アメリカ人が個人的に加わり、ヨーロッパ製のマシンで参加していたことを知って驚いた。
マックイーンのISDTの競技番号は278で、それはトライアルのスターと順に基づいていた。両チーム共にクラッシュを繰り返した。マックイーンは事故のダメージを回復できずリタイアし、エキンズは脚を骨折し撤退した。両者とも3日目のことであった。「B」チームの1名のみが6日間のイベントを完走した。イギリスの月刊誌「Motorcycle Sport」は「トライアンフのツインに乗る...[チームは]、賞賛に値するスタイルとまではいかないが、何度も落車し、6日間の競技で多くの人々が誰が勝利するか(彼らはそれが彼ら自身で無いことを知っていた)を心配していたかを抜きにして、どこでも素晴らしいダッシュを見せたのは明らかだった。」とコメントした。

マックイーンは1978年にオフロードモータースポーツ栄誉の殿堂入りした。1971年、マックイーンのソーラー・プロダクションはクラシックバイクのドキュメンタリー『栄光のライダー』に資金を提供した。同作にはマックイーンが出演し、共演はマート・ロウウィルとマルコム・スミスであった。同年、マックイーンがハスクバーナのダートバイクに跨がった写真が「スポーツ・イラストレイテッド」誌の表紙を飾った。
マックイーンはモータースポーツ用のバケットシートを設計し、その特許は1971年出願された。

『エド・サリヴァン・ショー』用に、マックイーンはデューンバギーに乗って高速で砂漠のまわりをドライブした。その後、エド・サリヴァンは「それは『相当な』ドライブだった!」と語った。

マックイーンは、いくつかのクラシックオートバイといくつかのエキゾチックなスポーツカーを所有した。その一部は以下を含む:
ポルシェ・917, ポルシェ・908, フェラーリ・512(『栄光のル・マン』で使用された物)
1963年型 フェラーリ・250 ルッソ・ベルリネッタ
ジャガー・Dタイプ XKSS(右ハンドル)
ポルシェ・356 スピードスター
1962年型 コブラ
フォード・GT40
何度か試みたにもかかわらず、マックイーンは自身が『ブリット』で運転したフォード・マスタングGT390を購入することができなかった。それは駆動系がマックイーンのドライビングスタイルに合わせて改造された物であった。映画で使用されたマスタング2台のうち1台はひどく破損し、修理は不可能と判断されスクラップにされた。

マックイーンはまた飛行機も操縦し、いくつかを所有した。1945年型のステアマン(テイルナンバーN3188)や、1946年型のパイパー カブ、1931年型のピトケアン・PA-8複葉機(第一次世界大戦のエース・パイロット、エディ・リッケンバッカーが郵便サービスで使用した機体)などである。それらはハリウッド北西にあるサンタポーラ空港に駐機されていた。


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