hiroチャンのブログ -8ページ目

御犬様も御猫様も、放置プレー御法度です。


『復讐するは我にあり・・・。』


愛しい、愛しい、

家族の一員である、

御犬様の私を車中に放置するとは

(;`O´)/なんぞやぁ~!!

動物虐待とちゃうかぁー!!










これは〝天誅〟でござる!


我、復讐するなりブリッ・・・。


うっ。。。( ̄x ̄;)
我ながら密室では強烈な香り・・・。

 

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御猫様を置き去りに、下僕が外出するとは許せぬ諸行。


 これはワシからの宣戦布告ニャー!


肝に銘ずるがよい!



ニャ♪ ニャ♪ニャ♪ニャ♪

【肝に銘じる】
何か重要なことを心の深くに刻み、忘れないようにするという意味を持つ表現。この表現における「肝」は、人間の精神や心の中心を指し、「銘じる」は深く刻み込むという行為を示します。この慣用句は、特に忠告や教訓を真剣に受け止め、行動に反映させる意思を強調する際に用いられます。



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Patricia Hearst



1974年2月4日
アメリカの左翼過激派組織シンバイオニーズ解放軍が大富豪の娘パトリシア・ハーストを誘拐。


【パトリシア・ハースト】
Patricia Hearst
アメリカの女優。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの孫娘。1974年に発生した「パトリシア・ハースト誘拐事件」に関与したことで知られる。通称パティ・ハースト (Patty Hearst)。
Patricia Hearst
パトリシア・ハースト
逮捕写真




生誕:1954年2月20日
アメリカ合衆国 サンフランシスコ
出身校:カリフォルニア大学バークレー校中退
職業:元シンバイオニーズ解放軍メンバー、女優

《経歴》
1954年、サンフランシスコの新聞社『サンフランシスコ・エグザミナー』社長、ランドルフ・アパーソン・ハーストの三女として生まれる。裕福な環境の下、何不自由なく育つ。

《誘拐事件》
1974年2月4日午後9時20分、当時19歳でカリフォルニア大学バークレー校2年生だったパトリシアは、家出して恋人と高級アパートに一緒にいたところを武装した2人組に襲われ、連れ去られる。その三日後、犯人グループである左翼過激派シンバイオニーズ解放軍(SLA)より地元ラジオ局のKPFAに犯行声明が届く。彼らはパトリシアの身柄を解放する代わりに、「カリフォルニア州の貧民6万人にそれぞれ70ドル分の食料を与える」ことを要求した。



同年4月15日、SLAのメンバーはサンフランシスコ北部にあるハイバーニア銀行サンセット支店を襲撃。この際、銀行の防犯カメラに誘拐されたはずのパトリシアが犯人グループと共にライフル銃を持って強盗を行っている様子が写る。この映像はマスコミを通じて広く報道され、全米は騒然となる。 




同年5月17日、FBIがSLAのメンバーのアジトを急襲し、犯人6名を射殺する。パトリシアは他のメンバーと外出していたため、難を逃れ、そのまま逃亡する。

6月7日、パトリシアは「タニア」という名を名乗り、ロサンゼルスの放送局に組織の同志になったことを宣言するカセットテープと写真を送りつける。このテープの内容は、「死を恐れず最後まで戦う」との声明の他に、親を「ファシストの豚」、婚約者を「セックスアニマル」と罵るもので、そのあまりにもショッキングな声明に全米は更に騒然となった。なお、このテープが公開された直後に婚約者はパトリシアとの婚約を破棄した。 



翌1975年9月18日、サンフランシスコにてFBIがパトリシアを逮捕。1年以上に及ぶ逃亡生活は終焉を迎えた。パトリシアは逮捕時に拳銃を突きつけられた恐怖から失禁してしまい、そのまま連れ去ろうとする警官にズボンの穿き替えを懇願し、男性警官の目の前で着替えを許された。

《裁判》
1976年2月に裁判が始まるとパトリシアは態度を豹変させて無罪を主張。

弁護士は逮捕時に失禁したことを挙げ、「最初から本気ではなく、殺されないために加入したふりをしたに過ぎなかった」と主張。弁護団は彼女は洗脳されたのであって責任はSLAにあるとしたが、陪審員は事件の社会的影響を重んじて有罪とし懲役35年の判決が下された。しかし、複数の著名人が釈放の嘆願書を提出した結果、刑は懲役7年に短縮された。その後、カーター大統領による特別恩赦と保釈金150万ドルを支払うことで1977年1月19日に仮釈放された。




《出所後》
出所後は積極的に社交の場に登場し、事件に関するインタビューも進んで受けた。25歳の時に、当時彼女のボディガードをしていたサンフランシスコ市警の警官と結婚。夫は現在、ハースト財団の警備を担当。二人の子供をもうけ、長女のジリアンは一族が経営するハースト社に勤め、次女のリディアはモデルとして活躍している。
1990年以降はジョン・ウォーターズ監督の映画に出演し脇役を務めている。

《映画》
『クライ・ベイビー』
『シリアル・ママ』
『I love ペッカー』
『セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ 』
『ア・ダーティ・シェイム』
《文化への影響》
S.W.A.T. (テレビドラマ)シーズン2の第7話でハースト事件を模倣する事件が起きた。


【シンバイオニーズ解放軍】
Symbionese Liberation Army:SLA
反資本主義・貧困層解放を掲げるアメリカの左翼過激派組織。共生解放軍とも呼ばれる。パトリシア・ハースト誘拐事件でその名が知られるようになったが、1975年に壊滅した。

《概要》
人種差別の撤廃や富の平等を主張したが、その実態はFBIも知らなかったような少人数集団(1974年当時8人)で、リーダーは若い時から刑務所で過ごした黒人の脱獄囚だった。メンバーは全員、英語ではない名前を付けた。最初のテロ事件を1973年11月6日に起こす。この時の教育委員会委員長殺害容疑でメンバー2名が逮捕された。彼らを釈放するために、残りのメンバーは大富豪の娘パトリシア・ハーストを誘拐する。
1974年2月4日、サンフランシスコのカリフォルニア大学バークレー校の学生パトリシア・ハーストはアパートに婚約者と一緒にいた時、侵入してきた暴漢に連れ去られた。それから共生解放軍(以下SLA)からの犯行声明が届き人質の肉声を納めたカセットテープも添えられていた。最初は身代金と同志の釈放だったが戦術変更し父親に対し「カリフォルニア州の貧民6万人にそれぞれ70ドル分の食料を与えよ」と命令した。合計で420万ドルとなり、いくら大富豪といえどもこれはさすがに無茶な要求だったが、やむなく実行し始めた。
ところが4月3日に彼女がメンバーになったことを宣言するテープと写真が送られてきた。その後SLAがおこなった銀行強盗に彼女も参加しその姿が防犯カメラに写っていたことからアメリカ中を震撼させることになった(これは、現在ではストックホルム症候群によるものと考えられている)。
しかし、FBIの必死の捜索によってアジトが発見され5月17日に多数の武装警官が包囲した。そして銃撃戦となり居合わせたメンバーは全員死亡した。一方パトリシアは他の二人の同志とともに、その場にはいなかった。復讐を誓って逃亡していたが銀行強盗をしたあとの1975年9月18日に逮捕される。逮捕後まもなく洗脳が解け、ここにきて実質的にSLAは崩壊した。


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1953年2月4日


【第一大邦丸事件】
韓国海軍による民間人殺害、および虐待事件のひとつ。
1953年2月4日に公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域。韓国側の主張では済州島沖9マイルとされる。)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)氏が被弾して死亡した事件である。

1952年1月18日、韓国は大日本帝国併合以前の旧大韓帝国の版図に基づき李承晩ラインを設定し、大韓民国領(竹島を含む)周辺の、対馬も含む海域における韓国の主権を主張し始めた。

《拿捕されるまでの経緯》
1953年1月22日に、第一大邦丸及び第二大邦丸は、福岡を出航し2月4日には二百八十四農林漁区で操業していた。
同日午前7時ごろに、第一大邦丸の南西より韓国の漁船である第一昌運号及び第二昌運号が北上して接近してきた。そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業(を装って日本船を監視)していた。しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、そのとき船尾から30メートル程度の距離にあった韓国船が、自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。日本側二隻は逃走を開始したが、8時15分には第二大邦丸が拿捕され、逃走していた第一大邦丸も銃撃が熾烈で、逃走を断念した。この時操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。第一大邦丸は8時30分に拿捕され、第一昌運号の船員に「翰林に行け」と日本語で命令された。

《取調べが始まるまで》
同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に略奪された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の『高医院』に収容された。しかし『高医院』とは名ばかりの医院で、病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否した。
船員たちは警察に行き軍病院かどこかへの入院を依頼した。しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否された。船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。その際に「車は直ぐ来ますから」と言われたため、船員はそのまま漁撈長の元へ行った。病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めたが、医者はリンゲルは高価だと躊躇。結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射ってもらった。
しかし韓国側は結局車を出さず漁撈長を放置し、漁撈長は2月6日の23時に死亡した。翌日漁撈長の遺体は命中弾が軍のものか警察のものか判明させる為に韓国側によって解剖され、結果憲兵の銃撃によるものであることが判明した。同日より警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、船員は残った私物の一部を売り払って葬儀一式を整え、足りない薪を付近の松の枝などで補ってさらに翌日に火葬した。

《帰国までの経緯》
2月9日から、船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁された。詰所は約4畳の広さで、そこに18人が監禁され、食料は一切支給されなかった為、船内食料で食いつないでいた。
取調べで韓国側は拿捕地点は翰林より9マイル付近であったと主張。日本人船員側が昌運号のコンパスの自差及び速力の矛盾を指摘したところ、韓国側に両者の主張の中間をとろうと言われて、13マイル付近を拿捕位置として捺印させられた。同時期に取調べを受けていた第二大邦丸の通信士によると、拿捕地点は翰林より30マイルである。
2月12日に一行は済州に送られる事になったが、誰も漁撈長の遺骨を持ってきていなかったため、遺骨を取りに行くことを要求したが、警察署長に拒否された。船員が移送用の車に乗ることを強硬に拒否したところ、1人だけ残して、次の日に運ぶ事を認められ、残りの船員は車で済州へ運ばれた。
同日23時頃、船員は済州警察査察課第二係に引き渡され、食事を与えられずにそのまま留置所に入れられた。この留置所も4畳ほどで、しかも他の韓国人と一緒に入れられていた。この留置所では粗末ではあるが食事は与えられた。
済州での取調べでは、李承晩ライン侵犯との韓国側からの指摘に対し日本側は、同ラインは韓国が一方的に定めたもので国際法上認められていないと反論した。クラーク・ライン侵犯との非難に対しては、米国公使より作戦の妨害にならなければよいと説明されていたことを伝えた。この際に韓国は自国の領海は島と島を結んだ線から計測されると主張した。これは群島基線に基づく主張であるが、韓国は群島国家であると主張していないため国際法的には無効であると思われる。
この後、警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成し、これに捺印させ、日本への通知とした。しかし、海図を出して調べるときには丁字定規一本とたばこ及びマッチを以て測るという具合に適当に作成された調書の矛盾より公海上の事件であった事がわかり、佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が、李承晩に会見を求め、これに対して李承晩は遺憾の意を表し、第一大邦丸の釈放に応じた。
2月15日午前7時頃に、船員は外事主任より今日帰国させる旨通告され、中型ジープで水上署まで移送された。その際に査察課の課長から、「死亡した人に対しては非常にすまない。今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれないのだから。あまり内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないようにしてくれ」との旨の挨拶を受けた。同日13時に船体の受け渡しがあり、同日済州を出航、アメリカ海軍のフリゲート「エバンズビル」に護衛されつつ、2月17日17時半頃に佐世保に入港、2月21日に佐世保を出航して、2月22日7時に福岡に帰港した。

《問題点》
民間船に対する無警告攻撃行為
当初より明確な軍事行為目的を持っていた。外務委員会連合審査会によると、韓国船2隻には乗組員各12名のほか、憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏4、5名が分乗していた。

拿捕後の取調べ時の非人道的な取り扱い。(食料を与えない、医療行為を受けさせないなど。)



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