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暗殺の森 Il Conformista


【ベルナルド・ベルトルッチ】

Bernardo Bertolucci
イタリアの映画監督、脚本家
(1941年3月16日 - 2018年11月26日)
日本語では慣用的にベルトリッチと表記される場合もある。



本名:ベルナルド・ベルトルッチ
Bernardo Bertolucci
生年月日:1941年3月16日
没年月日:2018年11月26日(77歳没)
出生地:イタリア王国、パルマ
死没地:イタリア、ローマ
職業:映画監督、脚本家
ジャンル:映画
活動期間:1962年 - 2003年
2012年 - 2018年
配偶者:アドリアーナ・アスティ
クレア・ペプロー
《主な作品》
『殺し』
『暗殺の森』 

『ラストタンゴ・イン・パリ』
『1900年』 

『ラストエンペラー』 

『シェルタリング・スカイ』
《受賞》
アカデミー賞
監督賞
1987年『ラストエンペラー』
脚色賞
1987年『ラストエンペラー』
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール・ドヌール
2011年
ヴェネツィア国際映画祭
栄誉金獅子賞
2007年
ヨーロッパ映画賞
審査員特別賞
1987年『ラストエンペラー』
生涯貢献賞
2012年
全米映画批評家協会賞
監督賞
1971年『暗殺の森』
英国アカデミー賞
作品賞
1988年『ラストエンペラー』
ゴールデングローブ賞
監督賞
1987年『ラストエンペラー』
脚本賞
1987年『ラストエンペラー』
セザール賞
外国語映画賞
1988年『ラストエンペラー』
日本アカデミー賞
最優秀外国作品賞
1988年『ラストエンペラー』
その他の賞
ハリウッド名声の歩道
2013年 映画産業への貢献、映画・演劇業界への貢献に対して

《来歴》
1941年3月16日にパルマで生まれる。父は詩人・作家のアッティリオ・ベルトルッチ、母は教師。父の影響を受け、15歳で詩や小説の執筆を始め、いくつかの文学賞を受賞する。

ローマ大学在学中の1961年にはピエル・パオロ・パゾリーニ監督のデビュー作『アッカトーネ』の助監督を務めた。翌1962年にローマ大学を中退すると、パゾリーニの原案を元にした長編『殺し』を発表し、映画監督としてデビュー。1964年に発表した2作目『革命前夜』はコミュニストであることを公言する22歳の青年を主人公にしたベルトルッチの自伝的作品と言われている。同作は第17回カンヌ国際映画祭では批評家週間部門に出品され、新評論家賞を受賞した。

1970年、イタリアにおけるファシズムの台頭と崩壊を描いた『暗殺の森』を発表。全米映画批評家協会賞 監督賞受賞やアカデミー脚色賞ノミネートなど、世界から高く評価された。1972年、マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーを起用して製作した『ラストタンゴ・イン・パリ』を発表。ポルノか芸術かの二項対立の論議を生み出したが、第46回アカデミー賞では監督賞にノミネートされた。1976年に発表した『1900年』はロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューを起用し、20世紀前半のイタリア現代史を総括した5時間16分の大作であった。
1987年、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の生涯を描いた『ラストエンペラー』を発表。第60回アカデミー賞作品賞・監督賞など多数の賞を受賞し、世界的な成功を収めた。その後発表した『シェルタリング・スカイ』(1990年)、『リトル・ブッダ』(1993年)とともに「東洋三部作」として知られる。

2003年の『ドリーマーズ』以降、長らく闘病生活を送っていたが、2012年に『孤独な天使たち』で9年ぶりに復帰。闘病中の2011年には第64回カンヌ国際映画祭で名誉パルム・ドールを受賞している。2013年、第70回ヴェネツィア国際映画祭で自身2度目となる審査員長を務めた。

2018年11月26日、癌のためローマ市内の自宅で死去。77歳没。
第91回アカデミー賞の、逝去した映画人に哀悼を捧げる“In Memoriam”(イン・メモリアム)のコーナーで追悼された。

《フィルモグラフィー》
監督作品
殺し La Commare secca (1962年)

革命前夜 Prima della rivoluzione (1964年)

ベルトルッチの分身 Partner. (1968年)

臨終 Agonia (1969年) オムニバス『愛と怒り』Amore e rabbiaの一篇

暗殺のオペラ Strategia del ragno (1970年)

暗殺の森 Il Conformista (1970年) 


ラストタンゴ・イン・パリ Ultimo tango a Parigi (Last Tango in Paris) (1972年)

1900年 Novecento (1900) (1976年)

ルナ La luna (Luna) (1979年)

ある愚か者の悲劇 La Tragedia di un uomo ridicolo (1981年)

ラストエンペラー L'ultimo imperatore (The Last Emperor) (1987年)

シェルタリング・スカイ Il t・ nel deserto (The Sheltering Sky) (1990年)

リトル・ブッダ Piccolo Buddha (Little Buddha) (1993年) 


魅せられて Io ballo da sola (Stealing Beauty) (1996年)

シャンドライの恋 L'assedio (Besieged) (1998年)

水の寓話 Histoire d'eaux (2002年) オムニバス『10ミニッツ・オールダー イデアの森』の一篇

ドリーマーズ I sognatori (The Dreamers) (2003年)

孤独な天使たち Io e te (2012年)

《製作作品》
Sconcerto Rock (1982年) 監督:Luciano Manuzzi

Io con te non ci sto pi・ (1982年) 監督:Gianni Amico

Il trionfo dell'amore (The Triumph of Love) (2001年) 監督:Clare Peploe

《出演作品》
ゴーレム、さまよえる魂 Golem - Lo spirito dell'esilio (Golem, l'esprit de l'exil) (1992年) 監督:アモス・ギタイ



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Browning -2-


【ジョン・ブローニング】- 2 -

ジョン・モーゼス・ブローニング
John Moses Browning




ショットガン開発を進める中、ジョンはショットガンの射撃時に発生するガスの余剰エネルギーに注目し、これを次弾の装填に利用できないかと思案した。そこでジョンはレバーアクションライフルの銃口に余分な発射ガスが漏れないようにキャップを取り付け、研究を開始した。
そしてキャップの中央に弾丸が通る穴を開け、キャップの下部には銃のレバーと連動するように連結用の金属棒を取付けられた。これにより射撃時に起こる発射ガスがキャップに連動し連結棒から自動的に銃のレバー部分に連動し次弾を装填する仕組みである。この試作銃は動作に成功したがセミオートマチックでの射撃のみで給弾の問題も起こってしまった。
そこで給弾の問題の解決にジョンが注目したのが、カウボーイ達が身に着けていたガンベルトである。
横一列に並べられた弾丸に注目したジョンは自ら弾薬を並べられるように弾帯を作製し、これを銃の機関部に装填することにより、連続して射撃が行える、いわゆる「機関銃」の開発に成功するのである。
その後金属製の弾帯をも作製し、ジョンとマシューはこの機関銃が軍事目的に使用されること望んだことから、それまで売込みを行っていたウィンチェスター社ではなく、軍用銃器メーカーとして当時有名であったコルト社にこの試作機関銃の売込みを行った。
この機関銃にコルト社が興味を示したことから、ジョンとマシューは1893~1895年の間に何度も大陸を横断しコルト社の本社を訪問し、その間にこの試作銃の設計変更や作動方式などの改良を何度も行った。
そして1895年に6mm口径の弾薬を利用したコルト・ブローニングM1895重機関銃として販売されることとなった。この機関銃には現在のマシンガンの多くで使用されている給弾機構「ガス・オペレーション式」が使用され、それまで機関銃の機構として用いられてきた手回し式のガトリング銃を完全に過去の物としたのである。

M1917重機関銃







またこの時期、ジョンは機関銃で開発に成功しているガス・オペレーション式機構を拳銃にも使用し、それまでのリボルバー式拳銃の自動式化にも成功し、1897年の8月に特許を取得、コルト社はこの自動式拳銃の製造権を買取り生産を開始している。一方、ガス・オペレーションで拳銃弾を射撃した場合、反動が大きいことから拳銃弾ではガス・オペレーション式には向かないことが発覚する。そこで新たに射撃の際に内部のボルト部分を一瞬遅らせ連動させる「パラレル・ローラー・ロッキング式」・「ローテーティング・バレル式」と呼ばれる機構を考案し、特許を得ている。1900年にはこの内の一つ「パラレル・ローラー・ロッキング式」を使用した拳銃の開発に成功し1896年に特許を取得、製造権を買取ったコルト社によりコルトM1900として、販売され、M1900はアメリカ国内で初のオートマチック式拳銃となった。

M1900はその後改良を重ね、バリエーションとしては口径や安全装置などを変更させたM1902・M1903・M1905・M1908を開発、これらはすべてコルト社によって生産・販売されることとなる。

ジョンが開発した自動式拳銃のうわさを聞き付けたベルギーのファブリックナショナル(FN)は、関係者をオグデンに派遣するようになった。1897年に当時FN社の営業部長であり販売責任者でもあったハート・O・バーグ(Hart O. Berg)はM1900に注目し、この銃をFN社に持ち帰り社長に提出した。そして既にアメリカ国内でM1900の製造権を取得していたコルト社に許可を得た後に、外観に変更を加えたFN社製M1900「FN ブローニングM1900」の販売をヨーロッパで開始した。
このFN社のM1900は当時ヨーロッパで販売されていた自動式拳銃の中ではもっとも小型で実用性があったことから、ベルギー国内では陸軍で正式採用され、ヨーロッパ各国で大変な売り上げを記録した。FN ブローニングM1900は1910年の生産終了までに実に72万5千丁を生産し、この功績からジョンはベルギー国内の工業生産に大いに貢献したとして、当時のベルギー国王であるアルベール一世からレオポルド勲章を得ている。

ジョンの銃器の自動化はショットガンにも使用されるようになり、それまで使用していた「ガス・オペレーション式」とは違う後方圧力を利用した「ブローバック式」を開発し、この機構を取り入れたショットガンの開発に成功している。しかしこの頃からジョン・ブローニングとウィンチェスター社の社長のベネットとの関係は、契約金の支払いなどの関係がこじれ、非常に悪化していた。そして新たにジョンが開発した自動式ショットガンの製造権を、ベネットが買取を拒否したことが決定的となり1882年以降19年間続いたウィンチェスター社との良好な関係に終止符が打たれる。

この新型ショットガンはニューヨークのリヨンにあるレミントン・アームズ社にも持ち込みを行うが、提出直前にレミントン社長であるマーセラルが突然死去してしまった為に機会を失ってしまう。そこでジョンはアメリカ国内でも販売をあきらめ、渡欧、先に自動式拳銃の契約に成功していたベルギーのFN社でようやく契約に成功する。このショットガンはFNブローニング自動五連式銃(FN browning Auto 5)として生産が開始。一方1904年にはレミントン社でも製造を開始し、こちらはレミントンM11として販売された。



FN社との繋がりが深くなったことからジョンはオグデンからベルギーFN社の近くに家族とともに移住し、そこでM1900の後継としてFN ブローニングM1910を開発し、1922年には遺作となる上下二連銃のBrowning Superposedを設計した。しかし、1926年にFN社工場への61回目の訪問の最中、突然の心臓発作で急死する。
ジョン・ブローニングは存命中、コルト・ガバメントなどのコルト社製自動拳銃やFN ブローニング・ハイパワーなどのFN社製自動拳銃、そして12.7mm重機関銃M2などの機関銃を設計した。彼が設計したそれらの銃器はどれも完成度が高く、現在も使用が続けられている。

ブローニングが設計した銃器一覧
《自動式拳銃》
FN ブローニングM1900
コルトM1900
コルトM1903
FN ポケット・モデル M1906
コルト・ベスト・ポケット
FN ブローニングM1910
M1911(コルト・ガバメント)
FN ブローニング・ハイパワー

《散弾銃、ライフル》
ウィンチェスターM1887(レバー・アクション式散弾銃。ターミネーター2で登場)
ウィンチェスターM1894(レバー・アクション式ライフル)
ウィンチェスターM1897(ポンプ・アクション式散弾銃)
ブローニング・オート5、レミントンM11(反動利用式五連発散弾銃)

《機関銃、自動小銃》
コルト・ブローニングM1895重機関銃
ブローニングM1917重機関銃
ブローニングM1919重機関銃
ブローニング自動小銃BAR
12.7mm重機関銃M2

《弾丸》
.25ACP弾
.32ACP弾
.380ACP弾
.38スーパー弾
.45ACP弾
12.7x99mm NATO弾


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Browning -1-


【ジョン・ブローニング】

ジョン・モーゼス・ブローニング
John Moses Browning



誕生1855年1月23日 - 没日1926年11月26日

アメリカ合衆国の銃器設計家である。本来、名字Browningの発音は「ブラウニング」に近いが、慣例的にブローニングと表記される。

ジョン・ブローニングは1855年にアメリカユタ州のオグデンで生まれる。父親も同じく銃技師であるジョナサン・ブローニング。モルモン教徒であったジョナサンには妻が二人存在し(当時、モルモン教では一夫多妻を認めていた)、そのためかジョンの周りの兄弟は異母兄弟5人を含め非常に多かった。直系では彼の他に弟が5人存在したが、その中で長男のジョンは父ジョナサンの銃砲店を手伝うようになっていた。
兄弟の中では一番器用であったとされ、18歳の時には銃の修理など父親の仕事を手伝うようになり、その他にも手作りでつくった革靴がオグデンで評判になるなどした。
その後、父親の銃砲店を引き継いだジョンは24歳のときにはみずからレバーアクション式単発ライフルを開発し1879年10月7日付けで特許を取得している。

1879年にジョンは生涯の妻となるレイチェルと結婚。しかしこの年に父親のジョナサンがこの世を去ってしまう。社長で一家の大黒柱でもあった父を失ったことでブローニング兄弟達はその後の店の経営方針を話し合いをした結果、弟のマシューの提案により生計は銃の修理に限定、それに平行してジョンの開発したレバーアクションライフルを販売しようという内容で合意することとなった。
3年後、ジョンら兄弟達はジョン自ら開発したレバーアクション式ライフルの販売をオグデンを中心に始めた。このライフル銃は当時それなりに高評価をえることとなった。

この銃に注目したのが当時、銃器販売で有名であったウィンチェスター社のセールスマン、アンドリュー・アクアウスランドであった。このユニークなライフル銃に注目したアンドリューは社長であったトーマス・G・ベネットに対しこのライフル銃を郵送した。ベネット自身もこの銃に大変感心し、当時ウィンチェスター社があったコネティカット州ハートフォードから大陸横断鉄道に乗り自らジョン・ブローニングに会いに行った。その後ベネットはジョンとの交渉の結果、この単発ライフルの在庫品と特許を8000ドルでの買取に成功し、その後ウィンチェスター社ではレバーアクションライフルの製造を開始した。
これが1885年に登場するウィンチェスターM1885である。

ウィンチェスター社との交渉の末、特許の売却により大金を得たジョンら兄弟達はオグデンに新たに二階建ての建物を買い取り1883年に「ブローニング兄弟商会(J.M.BROWNING & BRO.)」の名称で銃砲店を設立。
看板には『GUNS,PISTOLS,AMUNITION & FISHING TACKLE』と書かれていた(「銃、ピストル、弾丸、釣具」と表したかったのだろうが、「弾丸」はAMMUNITIONであり、Mが一つ足りない)。店内での営業は銃器販売を主として銃の調整から修理、さらに釣り具も販売されていた。
自らの店を持ったジョン達はその後、店での役割人事を決めることとなり、その結果ジョンは銃の設計開発に専念し、マシューが店舗の経営管理、その他の兄弟達はそれまで販売してきた銃の修理や製造を行うことで合意、店の経営状態もそれなりに順調に進めることが出来た。

その後ジョンは新たにレバーアクションライフルを開発し特許を取得している。外見上はウィンチェスター社が製造したウィンチェスターM73とそっくりな物だが内部構造が二つのロッキングブロックを使用しボルトを閉鎖するといったM73に比べて頑丈で故障の少ない設計になっていた。さらに弾薬はそれまで単発式ライフルで使用していた45-90弾を使用することが可能で、のちの改良型では50-110-300弾(0.50インチ口径)といった大口径弾を使用できた。この新型ライフルもウィンチェスター社はブローニングから50,000ドルで買取り、ウィンチェスターM1886として販売されるようになる。
このM1886は1886年から1932年までの間に総製造数約16万挺製造されることとなりウィンチェスターでは空前のヒット商品となった。

M1886の製造権をウィンチェスター社に売りこんだ1884年にジョンとマシューはベネットからの招待を受け、ユタ州からコネティカット州のウィンチェスター本社に向かうこととなった。そこでベネットから新たにレバーアクション式のショットガン製造の話を持ちかけられる。その答えにジョンとマシューは2年以内には出来ると答え研究を開始し、8ヵ月後の1885年の6月に特許申請を行ない、ウィンチェスターに売りこんだ。
これが世界初のレバーアクション・ショットガンであるウィンチェスターM1887である。



同じくしてジョンは、ショットガンの機関にはレバーアクションとは違う別の作動方式が向くと考えていた。そこで1890年に新たに彼が考え出した機関部が後のショットガンの機関部として有名となる「ポンプアクション方式」である。ポンプアクションとはショットガンの銃身に取付けられた送弾機をスライドさせ、それをまた戻すことで射撃姿勢を維持したまま弾薬装填と廃莢を同時に行う機構である。このポンプアクション機構を取入れ撃鉄を露出させた有鶏頭型(オープンハンマー)ショットガンを開発している。この銃はその後ウィンチェスターM1893として世に売り出された。
M1893は改良されウィンチェスターM1897としてアメリカを中心に大々的に売られる事となる。M1897はその後ウィンチェスター社の銃技師であるトーマス・C・ジョンソンによりさらに改良が加えられ、1912年にウィンチェスターM1912として1943年まで製造されることとなった。

ポンプアクション機構の開発に成功したジョンはウィンチェスターに対しこの機構の買取りを要求するが、ウィンチェスター社ではレバーアクション式の銃器が非常に利益を得ていた事からベネットは引続きジョンに対しレバーアクションのライフル銃の設計を依頼した。条件として大口径ではなく、それまで製造してきたM73の外見をそのまま使用し、もっと近代的でさまざまな口径の弾薬が撃てる民間ライフル銃を設計してほしいと依頼してきたのである。さらにベネットは3ヶ月以内に完成したら一万ドル、2ヶ月以内なら一万五千ドル支払うと持ちかけている。この答えにジョンは「30日以内に作るからそのときは2万ドルほしい、そしてもし一日でも開発が遅れれば1セントもいらない」と答えた。
実際にジョンはこの約束を見事達成し、このライフル銃はのちに西部劇などでよく登場するウィンチェスターM92として販売され、その後このライフル銃は実に100万挺も売れウィンチェスター社に高利益をもたらした。



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