壮絶なる現場 - その2
【三毛別羆事件】- 2 -
その頃、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(当時10歳)、次男・勇次郎(当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(当時3歳)、四男・梅吉(当時1歳)の6人と、斉藤家から避難していたタケ、巌、春義の3人、そして要吉の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。前日の太田家の騒動を受け、避難した女性や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていた。護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していたため、男手として残っていたのは要吉だけで、主人の安太郎は所用で鬼鹿村へ出掛けており不在だった。太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。
太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分頃、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉は無い。その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。
ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついた後、3人を手元に引きずり込み、ヤヨの頭部をかじった。だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。
追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。
川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。そこへ重傷のヤヨと子供達がたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。途中で、重傷を負いながらも脱出してきた要吉を保護した後、男達は明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。中からは、タケと思われる女性のうめき声と、肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男達の前に現れた。先頭の男が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した。
ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の眼に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。
上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、その時には少し動いていたという。しかし一時間後には死亡した。力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。
ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった。急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。日露戦争帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた。巌は肩や胸にかみつかれた傷を負い、左大腿部から臀部は食われ骨だけになっていた。
六線沢の全15戸の住民は、三毛別にある三毛別分教場(その後、三渓小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えた。
この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。重傷者達は翌日さらに3km下流の家に移り、古丹別の沢谷医院に入院したのは12日になった。
12月11日
すべての住民が三毛別分教場に避難した六線沢に人影はなく、おびえながら固く戸締りをした三毛別の各農家がヒグマ避けに焚く炎が、昨夜から不気味に寒村を照らしていた。小村の住民だけではもはやなす術なく、三毛別地区区長の大川与三吉(当時47歳)と、村の長老や有志、駐在所巡査、御料局分担区員、分教場教師らが話し合い、ヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。
その一方、家族に降りかかった悲劇を知らず雪道を往く斉藤石五郎は、役場と警察に太田家の事件報告を終えて10日は苫前に宿を取り、11日昼近くに帰路についた。下流の三毛別にたどり着き、妻子の受難を知らされ、呆然と雪上に倒れ伏しただ慟哭をあげるしかなかった。
12月12日
討伐隊の組織
六線沢ヒグマ襲撃の連絡は北海道庁にもたらされ、北海道庁警察部保安課から羽幌分署長の菅貢(階級は警部)に討伐隊の組織が指示された。一方、死亡者の検死のため馬橇で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午頃山道でヒグマの糞を発見した。それを検分し、中から人骨・髪の毛・未消化の人肉を見つけると、立ちすくんだ。
菅警部は近隣の青年会や消防団、志願の若者やアイヌたちにも協力を仰ぎ、村田銃や刃物類、日本刀を携えた者を含め、多くの人員が三毛別に集まった。
副隊長には土地勘がある帝室林野局(現在の林野庁)の人物と三毛別分教場の教頭を置き、隊長の菅警部は要所を固める一方、討伐隊を差し向けた。
しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることはできなかった。
待ち伏せ
夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねた。ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性がある。これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案されたが、その獲物が意味するものを前に本部内の意見は割れた。菅隊長は目的のためこの案を採用し、罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った。だが、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。事態はそれだけ切迫していた。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用された。
作戦はただちに実行された。銃の扱いに慣れた7名が選ばれ、交替要員1人を除く6名が、補強した梁の上でヒグマを待った。居間に置かれた胎児を含む6遺体の死臭の中、森から姿を現したヒグマに一同固唾を飲んで好機を待った。しかし、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り、森へ引き返していった。
男たちはそのまま翌日まで待ち伏せたがヒグマは現れず、作戦は失敗に終わった。
つづく・・・。
340㎏の魔物 - その1
【三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)】
六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)、苫前羆事件(とままえひぐまじけん)、苫前三毛別事件(とままえさんけべつじけん)とも呼ばれる。
場所:北海道苫前郡苫前村大字力昼村三毛別
日付:1915年(大正4年)12月9日-12月14日
概要:体重340kg、体長2.7mのエゾヒグマが数度にわたり民家を襲った。
死亡者:7名
負傷者:3名
対処:射殺
エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事態は終息する。
事件の現場となった北海道三毛別六線沢は、日本海の沿岸から内陸へ30kmほど入った地区である。地名の「三毛別」は、アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」に由来する。なお、六線沢の住民は東北などから移住してきた人々で、元々住んでいた人はいない。
1915年(大正4年)11月初旬のある夜明け前、六線沢の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。飼い馬が驚いて暴れたため、その時の被害はわずかなものに留まった。村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田富蔵はぬかるみに残った足跡の大きさに懸念を持った。
11月20日、ふたたびヒグマが現れた。馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から谷喜八と金子富蔵という2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せることにした。
30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。その夜、長男・富吉や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。谷たちは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。
12月9日
秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。三毛別のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男達の多くは出払っていた。
12月9日の朝、三毛別川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(当時59歳)が一足早く仕事に向かい、当主の太田三郎(当時42歳)も氷橋に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部マユ(当時34歳)と太田家に預けられていた少年・蓮見幹雄(当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。
同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。ふざけて狸寝入りしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けてのぞき込んだ。その時、要吉は幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。
側頭部には親指大の穴が穿たれ、すでに幹雄は亡くなっていた。
要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。
ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、下流の架橋現場に走った。
駆けつけた村の男達は、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。
入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。
おそらく、トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。
足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。
ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。
それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。
そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が絡みついていた。
要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きの馬鈴薯が転がっていたという。
そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。
実は事件直後、三毛別の村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかった。
このことから、事件は午前10時半頃に起こったと推測された。
事件の報に村は大騒動となった。しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置した頃には午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。男達は太田家から500m程下流の明景安太郎(当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。
ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、とり急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村(現・苫前町力昼)の蓮見家への連絡を取らなければならない。
しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤石五郎(当時42歳)が引き受けることになった。
太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)へ外出しなければならない明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(当時6歳)、四男・春義(当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。
12月10日
早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男達は、ヒグマを討伐してマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。
昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した。
馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。
鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため発砲できたのはたった1丁だけだった。
怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。
改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることに気付いた。
その下にあったのは、黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。
このヒグマは人間の肉の味を覚えた。
マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。
夜になり、幹雄の両親とその知人の3名が到着。
太田家では幹雄とマユの通夜が行われたが、村民はヒグマの襲来におびえ、参列したのは六線沢から3人、三毛別から2人と幹雄の両親とその知人、喪主の太田三郎のあわせて9人だけだった。
幹雄の実母・蓮見チセ(当時33歳)が酒の酌に回っていた午後8時半頃、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが室内に乱入して来た。
棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。
混乱の中、ある男はあろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。以来、夫婦の間では喧嘩が絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。
つづく・・・・。
吾輩は漱石である・・・。
12月9日は、グレゴリオ暦で年始から343日目(閏年では344日目)にあたり、年末まであと22日ある。
====12月9日の記念日===
【漱石忌】
小説家・夏目漱石の1916(大正5)年の忌日。

【障害者の日】
国際障害者年の1981(昭和56)年のこの日に開催された総理府(現在の内閣府)主催の中心記念事業「広がる希望の集い」で制定。厚生省(現在の厚生労働省)が実施。
1975(昭和50)年、国連総会で「障害者の権利宣言」が採択された。
国際障害者デー 12月3日
【国際腐敗防止デー(The International Day against Corruption)】
2003(平成15)年のこの日、「国連腐敗防止条約」が調印された。
公務員等による贈収賄・横領などの汚職・腐敗行為の防止のための日。
【独立記念日 [タンザニア]】
1961年のこの日、アフリカ東部の国・タンザニア連合共和国を構成するタンガーニカがイギリスから独立した。
1963年12月にザンジバルもイギリスから独立し、翌1964年に両国が連合して連合共和国となった。
====毎月9日の記念日===
【クレープの日】
株式会社モンテールが制定。数字の「9」が巻かれたクレープの形に似ていることから。毎月9日、19日、29日。
【パソコン検定の日】
全日本情報学習振興会が制定。「級(9)」の語呂合わせ。
【クジラの日】
大日本水産会や日本捕鯨協会等25団体が、京都で国際捕鯨委員会年次総会が開催された1993(平成5)年に制定。「く(9)じら」の語呂合わせ。
『クジラと握手』


====12月3日~12月9日===
障害者週間
===11月10日~12月10日===
手足の不自由な子供を育てる運動
===12月4日~12月10日===
人権週間
===11月11日~12月12日===
電池月間
===11月16日~12月15日===
東京都エイズ予防月間
===12月9日~12月15日===
(旧)身体障害者福祉週間
===12月1日~12月28日===
食品・添加物等の年末一斉取締り
===10月1日~12月31日===
赤い羽根共同募金運動
===12月1日~12月31日===
大気汚染防止推進月間
脱スパイクタイヤ運動推進月間
地球温暖化防止月間
未成年者飲酒防止強調月間
歳末たすけあい運動,海外たすけあい運動
年末年始の防犯運動
====12月9日の出来事===
536年
東ローマ帝国の将軍ベリサリウスが東ゴート王国のローマに入城。
887年(仁和3年11月21日)
藤原基経が初の人臣関白に就く。
1159年
藤原信頼・源義朝らが後白河上皇の御所を襲撃し二條天皇を幽閉。平治の乱が始る。
1425年
ルーヴェン・カトリック大学創立。
1851年
北アメリカ州初めてのYMCAがケベック州モントリオールに設立される。
1872年(明治5年11月9日)
明治政府が、この年の12月31日(12月2日 (旧暦))の翌日から太陰太陽暦を廃止して太陽暦を採用することを決定。
1905年
フランスで政教分離法が公布。
1911年
浪花節の桃中軒雲右衛門が日本初のレコードの吹き込みを行う。
1915年
三毛別羆事件発生(さんけべつひぐまじけん)。北海道留萌苫前村三毛別で6歳の子供が羆に食い殺される。翌日の通夜にも現れるなどし、14日に射殺されるまでに計7人が死亡。体重340kg、体長2.7mのエゾヒグマが数度にわたり民家を襲う、事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事態は終息した。クマの獣害としては日本史上最悪の被害を出した事件。
(ワテそない物騒なこと、ようしませんわぁ・・・。)

1920年
大杉栄らが日本社会主義同盟を結成。
1931年
スペイン第二共和政: スペインの国会で新憲法が成立。
1935年
12.9運動。日本が河北省などに設置する予定の冀察政務委員会に反対して北京の学生が抗日デモ。
1945年
GHQが農地改革を指示。
1946年
ニュルンベルク継続裁判が開始。
1948年
集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約)締結。
1962年
タンガニーカ(現在のタンザニアの一部)が英連邦王国から独立。
1966年
バルバドスが国連に加盟。
1968年
世界で初めてハイパーテキスト・マウスなどを実用化したコンピュータシステムNLSが公開される。
1971年
アラブ首長国連邦が国連に加盟。
1974年
田中金脈問題で田中角榮内閣が総辞職し、三木武夫内閣が発足。
1975年
国連総会で障害者の権利宣言を採択。
1986年
フライデー襲撃事件。ビートたけしとたけし軍団ら12人が「フライデー」の取材方法に抗議し、講談社に押し掛け暴行を働く。全員逮捕。

1987年
対ソ連軍領空侵犯機警告射撃事件が起こる。ソ連の偵察機が沖縄本島領空を侵犯。自衛隊機が初めて実弾警告。

(大統領も自ら偵察ですかぁ・・・?)


1989年
全国労働組合連絡協議会(全労協)結成。
1992年
ダイアナ妃とチャールズ王子の離婚が発表される。
1993年
将棋の公式戦史上初めて女流棋士(中井広恵)が男性棋士(池田修一)から白星を挙げる。
1993年
屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヵ所が日本初の世界遺産に決定。
1995年
白川郷・五箇山の合掌造り集落が世界遺産に登録。
1995年
アメリカ海軍のニミッツ級航空母艦の7番艦であるジョン・C・ステニスがサンディアゴ港にて就役。
2003年
日本の火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道投入を断念。火星への衝突を回避するため、「のぞみ」に弱い噴射を行うコマンドが送信される。
2005年
日本政府が自衛隊イラク派遣の1年間延長を決定。
2005年
日本の小惑星探査機「はやぶさ」との通信が途絶える。燃料漏れによる姿勢の乱れにより太陽電池の発電量が低下し電力を使い切ったため。
2015年
靖国神社トイレ爆破事件の被疑者が逮捕される。
2019年
ニュージーランドのホワイト島で火山噴火。観光客が巻き込まれて12日時点で8人が死亡、8人が行方不明。
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