猫科の動物を飼う場合、飼い主としては、脱走には特に注意しなくてはならない・・・。
逃げた私達がそんなにも悪いのでしょうか?
扉が 開いていたら、そりゃぁ散歩にでも行こうかって気にもなるでしょうがぁ?
追いかけられれば、本能的に逃げますよ!
逃げた私達がそんなにも悪いのでしょうかぁ?
そもそも、誰ですかぁ?私達をこんなところに連れてきて閉じ込めていた方は?
逃げた?散歩に出た?見解の相違でしょう。
射殺とは、私達がそんなにも悪いのでしょうかぁ?
麻酔銃という選択は無いのですね・・・。
ネコ科ですけど猫ではありませんから、飼育者にも、飼育を許した行政にも問題があるのでは?

まぁ今の時代、同じように散歩に出たら、やはり同じ結果が待っているのでしょうけど・・・。
1979年
千葉県君津市の神野寺の境内に併設された動物園の2頭のトラが逃走、寺から2kmほど離れた住宅街にも姿を現わし、飼い犬が襲われる被害が出たが、警察、消防、猟友会、猟犬などによる27日間の捜索の末2頭とも射殺される。
【神野寺虎脱走事件】
(じんやじとらだっそうじけん)
1979年8月2日に、千葉県君津市にある鹿野山神野寺から、当時飼育されていたベンガルトラが脱走した事件。虎は1ヶ月弱も脱走を続け、日本で発生した脱走事件の規模としては、過去類を見ないものであった。
場所:千葉県君津市
日付:1979年(昭和54年)8月2日 - 8月28日
概要:3頭のベンガルトラが脱走し、市街地などにも現れた。死者はいなかったが、犬が噛み殺されるなどした。
原因:虎が飼育されていた檻の扉が開いていたこと。
死亡者:0人
損害:犬が噛み殺される。
対処:射殺
《事件発生》
事件が発生したのは1979年8月2日夜のことであった。当時、神野寺は動物マニアの住職が管理していた。そのため、寺の境内には動物園まで設置され、多数の動物を見せ物とすることで、寺の訪問客に人気となっていた。特に干支にまつわる動物を集めていたため、この動物園は別名「十二支園」とも呼ばれた。虎も十二支に登場することから合計12頭も飼育されていたという。
しかし8月2日の夜、虎が飼育されていた檻の扉が開いており、12頭のうち3頭が姿をくらましていた。それに気づいた寺の職員が、翌日3日未明、千葉県警に110番通報した。脱走した虎はいずれも1歳のベンガルトラだが、1歳とはいえども体重は90~100kg程度、体長はおよそ150cmで、極めて獰猛であった。3頭の虎のうち、1頭はすぐに檻に引き返したため、直ちに捕獲されたが、その他2頭(オスの虎とメスの虎がそれぞれ1頭ずつ)は脱走を続け、大事件へと発展した。
事件発生を受けて、警察は現地対策本部を設置し、警察官はもちろんのこと、機動隊や猟友会員、消防隊員なども含め、合計500人を動員させ、虎の行方を追わせた。寺がある君津市を中心に、虎の脱走を告げる有線放送が流され、一般市民には即座に外出禁止令が発令されたほか、交通規制も行われた。
事件当時、寺の周辺にはおよそ400人が集まっており、民家は80世帯ほど存在した。そのため、一般市民が虎に襲われたら一溜まりもないことは確かであった。市民達も戸締りをしっかりと行い、身を守った。
本来なら、麻酔銃の使用により生け捕りで寺に返すことが最善であったが、山合いが広がる現場や市民の命のことを考えると、射殺もやむを得ないと判断され、虎捜索のための大捜査網が敷かれた。
《1頭目の射殺》
事件発生から2日後の8月4日、それまで虎は山合いにいると思われていたが、ついに市街地にまで姿を現したため、捜索人員が800人程にまで大幅に増やされた。
そして同日、神野寺付近の山中を捜索していた捜索隊達が、辺りをうろつく1頭の虎を発見した。寺から逃げたメスの虎だった。虎は捜索隊の至近距離にまで接近したため、隊員は即座に発砲。4回の攻撃でようやく虎は死亡した。
これで1頭目は解決したが、まだオスの虎1頭が残っており、捜索隊は一瞬たりとも気を緩めるわけにいかなかった。
《射殺による非難》
メスの虎の射殺は、本来なら市民にとっては理想の対処であったはずだが、それによって、捜索隊らを思いも寄らぬ悪夢が襲った。捜索隊がそれぞれの家に帰宅すると、突然電話がかかり、相手からの伝言は「虎を射殺するな!」「虎が可哀想だろ!」という様な、射殺に対する文句・苦情であった。全国にいる動物愛護団体などからの発信とみられた。隊員達への誹謗中傷の電話は連日続き、寝ることもままならなかったという。
ちなみに、隊員達にしつこく電話がかかってきた原因の1つは、1頭目の射殺を新聞等が報じた際に、射殺に関与した捜索隊メンバーの個人情報(電話番号を含む)も公表されてしまったことにあると考えられている。
なお、虎を逃してしまった神野寺の住職も、虎の射殺に対してクレームを発したため、捜索隊は激怒。一度捜索の手を止めざるを得なくなった。
《犠牲となった犬》
1頭目の射殺から3週間以上経過しても、もう1頭の行方は判らぬままで、市民たちは恐怖の余り、屋外ではほとんど生活できず、子供達も夏休みを有意義に過ごせずにいた。
だが、事件発生からおよそ1ヶ月後の8月28日、ついにオスの虎は、市街地の庭にいた1匹の飼い犬を襲撃。飼い主がそれに気づいた頃には、犬は噛み殺されたまま無残な光景で命を絶っていた。人間に飼い慣らされた虎だが、再び野生の本能が蘇り、狩に興味を持ち始めていた。
この出来事は、脱走した虎による具体的な被害としては初めて市民に知らされ、一段と強い恐怖が市民を支配した。
《2頭目の射殺・事件に幕》
犬が襲われた事態を知った捜索隊は、人間が虎の餌食と化すのも時間の問題だとして、反対意見は多いが生け捕りではなく射殺が妥当だと判断した。そして、虎対策はより一層本格化し、警察学校は、特に射撃の腕が良い警察官達を捜索隊として派遣し、「虎捜索選抜隊」ができた。同時に、通常の銃弾よりも殺傷の効果が高い「スラッグ弾(一発の大きな弾体を発射する)」と呼ばれる銃弾を使用することも決定された。
犬が犠牲となった日の昼、新たに派遣された虎捜索選抜隊が、山間部を捜索中に、ついにオスの虎の姿を目にした。選抜隊により発砲された弾丸は虎の身体に命中し、虎はそのまま息を引き取った。
およそ1ヶ月弱 (26日間) に及ぶ大規模な虎脱走事件はこうして幕を閉じ、地獄の様な夏を過ごしていた市民達は、再び穏やかな日常を取り戻した。
《寺の住職らの責任》
事件から2ヶ月後の10月、神野寺を管理していた住職と、当時虎の飼育員であった住職の娘は、動物の管理における責任を問われ、共に軽犯罪法違反の疑いで送検された。当初2人は「事件前日(8月1日)の夕方の点検時には、檻の鍵は開いていなかった」と主張したが、警察が詳細な検証を行った結果、虎の脱走時、扉は閉まっていなかったという結論が出された。
《猛獣飼育における規制の強化》
この大事件をきっかけに、日本における猛獣飼育に対する条例・法律が大幅に強化された。環境省は、事件が発生した1979年8月、47都道府県全てに対し、ライオンや虎など猛獣類の飼育に関する条例を定めるよう指示。実際に脱走事件が起きた千葉県においても、「危険な動物の飼養及び保管に関する条例」が定められ、事件の3ヶ月後から施行されている。
《その他》
事件後、神野寺内で飼育されていた虎は、北海道にある動物園に輸送され、飼育が取りやめとなった。
神野寺に隣接するマザー牧場では、8月4日にロックコンサートの開催を計画していたものの、事件により中止となった。また、そのコンサートに出演する予定だったRCサクセション(忌野清志郎)は、事件後の9月15日に渋谷で「トラ追悼コンサート」というライブを開催した。
詩人である石垣りんは、「焔に手をかざして(エッセイ)」において、事件後、ニュースでも報道された、仏塔3本が立ち供養される画像を見て「神野寺としての目的は虎の供養であり、虎に殺された犬の供養はあくまで世間体に過ぎないのではないか」と記述した。
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