暴力では何も変わらない・・・。 | hiroチャンのブログ

暴力では何も変わらない・・・。


1975年
三菱重工爆破事件など連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人を一斉逮捕。

【東アジア反日武装戦線】

日本の新左翼、非公然・非合法武闘派左翼グループ。

目的:反日武装闘争による反日革命。日本国家/天皇制/日本民衆の戦争責任戦後責任の告発 新植民地主義的経済侵略企業への攻撃。
1970年代に三菱重工爆破事件など連続企業爆破事件等の爆弾による武装闘争を実行した日本の武闘派左翼テロリストグループ。反日亡国論、アイヌ革命論などを主張していたことから、捜査機関は、反日アナキズム思想を持つ「極左暴力集団」と当初から見なしていた。

カンパニア闘争の開始
まず手始めに、大衆に訴えるカンパニア闘争の一環として、「日本帝国主義」の象徴となるものを爆破することになった。
興亜観音・殉国七士之碑爆破事件(1971年12月12日)
総持寺納骨堂爆破事件(1972年4月6日)
風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件(1972年10月23日)
これら三つの事件の後、本格的武装闘争に移行することになった。
1972年12月、「東アジア反日武装戦線」という名称が決まった。
1973年は、本格的武装闘争に備えて、爆弾の開発や活動資金の貯蓄に努めた。また、自らの主張を世に訴え、闘争の意義や理念を共有する後続武闘派諸個人・諸グループが、反日武装闘争潮流に合流することを期して、小冊子『腹腹時計』の執筆、出版に着手した(翌年2月に刊行)。

1974年8月14日、昭和天皇が乗車したお召し列車を、鉄橋もろとも爆破しようとした(虹作戦)。しかし、決行直前に人に見られたため未遂に終わった(ただし、当日通ったお召し列車は、彼らが爆弾を仕掛けようとした鉄橋(客車線)ではなく、貨物線の鉄橋を通行しており、もし決行されていたとしても暗殺は失敗した可能性が高い)。翌日韓国において、朝鮮総連メンバーの文世光が時の大統領朴正煕を暗殺しようとした事件が発生していた(文世光事件)。この事件の犯人文世光は出身の朝鮮総連活動家であった。文世光に呼応するために新たな作戦に着手する。

同年8月30日、三菱重工業東京本社ビルで爆弾を破裂させ、8名が死亡、376人が負傷した(三菱重工爆破事件)。これは予測をはるかに上回る惨事であったが、これをきっかけに、翌年5月まで連続企業爆破事件を起こす。

1975年5月19日、主要メンバー7名(大道寺夫婦・佐々木・益永・斎藤・浴田・黒川)と協力者の看護学生1名が逮捕された。斎藤和は逮捕直後に自殺した。また協力者の看護学生の姉及び別の協力者も自殺している。一斉逮捕を逃れた宇賀神寿一と桐島聡は全国指名手配となったが、1982年7月に宇賀神は逮捕された。

爆弾製作は、身近にある工具や日用品で工作していたが、自宅アパートの床下を掘って、地下爆弾製造室を作っていたメンバーもいた。組織としての本拠地・アジトは持たず、メンバーの生活空間を攻撃拠点としていた。

『腹腹時計』では日本の一般大衆を「日帝本国人」と規定し、「反日闘争」に加担しない日本の一般大衆を「日帝」の成員として断罪した。また日本帝国主義と非和解的に闘う、真の革命的主体は山谷、釜ヶ崎、横浜寿町などの流動的下層労働者だとも述べた。公然組織を持たない純粋な地下秘密組織であり、市民社会からの広範な支持を受けることは、ほとんど考慮していなかった。

多数の死傷者を出すに至った三菱重工爆破事件後に出された犯行声明では、「爆死し、あるいは負傷した者は、無関係の一般市民ではない。植民者である。」と「爆破作戦」を正当化した。75年5月19日のメンバーの一斉逮捕後、各メンバーは裁判の場で、また自身の著作などで自己批判を行ない、被害者に深い謝罪を繰り返し表明した。

後年、三菱重工爆破事件について触れ、同月に実施されるはずだった「虹作戦」に頓挫し消尽と無力感を痛切に感じていたメンバーたちが、翌日に起きた朴正煕暗殺未遂事件の実行者であり韓国の獄中に収監された在日朝鮮人文世光に「事実行為」で連帯しており、一刻も早く呼応しなければならないとの焦りから、「虹作戦」で使用されなかった威力が甚大な鉄橋爆破用の爆弾を流用し、更には爆弾を建物ではなく歩道に設置するといった杜撰な作戦計画を実行してしまったと総括した。



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