夏目家の黒猫
【吾輩は猫である】
『吾輩は猫である』は1905年1月に発表された作品。
中学校の英語教師である珍野苦沙弥の家に飼われている猫である「吾輩」の視点から、珍野一家や、そこに集う彼の友人や門下の書生たちの人間模様を風刺的に描いた、漱石の処女小説。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。」という書き出しは有名である。
主人公「吾輩」のモデルは、漱石37歳の年に夏目家に迷い込んで住み着いた、野良の黒猫である。
夏目漱石といえば猫を連想しがちですが、犬も飼っていました。 夏目家の猫は、『吾輩は猫である』の主人公と同じように名前はないままでしたが、それに対し犬(雑種)には「ヘクトー」という名前をつけていたそうです。
夏目漱石が「猫」を飼い始めたのは、彼がまだ作家として一流と呼ばれるようになる前のことでした。
当時の漱石は作家業だけでは生計を立ててはいけず、大学で英語の教員もしていました。
千駄木にあった夏目家に、トラ模様混じりのグレーがかった黒い子猫がやってきたのは、そんな時期のことでした。
生まれて間もない小さな子猫は、猫が嫌いな漱石の妻・鏡子さんが何度追い出しても、いつの間にか夏目家に上がり込んでしまいます。それを見かねた漱石が「飼ってやったらいいじゃないか」と言ったことで、「猫」は晴れて夏目家の一員となったのでした。
この猫を見たあんま(マッサージ)師のおばあさんは、鏡子さんにこう言ったそうです。
「このような全身が真っ黒な猫がいる家には、福が舞い込みますよ」と・・・。
実際、夏目漱石はその後「猫」をモデルにした小説『吾輩は猫である』を発表し、一躍人気作家の仲間入りを果たしたのでした。
作品発表から3年後に、名も無き黒猫さんは虹の橋を渡りました。
1908年9月13日夏目漱石が飼っていた「吾輩は猫である」の主人公モデルとなった猫が死亡。
1908年9月13日に猫が死亡した際、漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した。
【猫の死亡通知】
辱知猫義久々病氣の處療養不相叶昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致候 埋葬の義は車屋をたのみ蜜柑箱へ入れて裏の庭先にて報行仕候。
但主人「三四郎」執筆中につき御曾葬には及び不申候
以上
九月十四日
(複数の方に出され、内容の表現には多少の違いがある模様)
実際、モデルの黒猫には名前が無かったようである。
また、猫の墓を立て、書斎裏の桜の樹の下に埋めた。小さな墓標の裏に「この下に稲妻起る宵あらん」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」(『永日小品』所収)という随筆に書き記している。毎年9月13日は「猫の命日」である。
猫塚
『猫』が執筆された当時の漱石邸は現在は愛知県の野外博物館・明治村に移築されていて(旧所在:文京区千駄木)公開されている。東京都新宿区弁天町の漱石山房記念館(漱石山房跡地)には「猫塚」があるが、戦災で焼損し戦後その残欠から復元したものだという。
【吾輩は黒猫である・・・】
名前は・・・
あるようなぁ~?
ないようなぁ~?
黒猫さんは個性的である。