戦場のピアニスト The Pianist
Roman Polanski
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240815/22/123hiro/b9/45/j/o0872108015475207739.jpg?caw=800)
本名:Rajmund Roman Liebling
生年月日:1933年8月18日
出生地:フランス パリ
国籍:ポーランド、フランス(二重国籍)
配偶者:Barbara Lass (1959-1962)
シャロン・テート (1968-1969)
エマニュエル・セニエ (1989-)
ユダヤ教徒のポーランド人の父親とカトリック教徒でロシア生まれのポーランド人の母親の間にフランスの首都パリで生まれる。出生時の名前はライムント・ロマン・リープリンク(Rajmund Roman Liebling)。3歳のとき一家はポーランドのクラクフに引越し、そこで幼少期を過ごした。異父兄妹の姉がおり、のちにアウシュビッツに連行されたが、生き延び、その後、パリで暮らしたという。
第二次世界大戦時はドイツがクラクフに作ったユダヤ人ゲットーに押し込められた。ゲットーのユダヤ人が一斉に逮捕される直前、父親はゲットーの有刺鉄線を切って穴を作り、そこから息子を逃がした。父母はドイツ人に別々に連行された。母親はアウシュビッツでドイツ人に虐殺された。また、母親はこの時、妊娠していたとポランスキーは証言している。父親はドイツ人により採石場で強制労働をさせられ、終戦まで生き残った。
また自身も、ドイツに占領されたフランスのヴィシー政権下における「ユダヤ人狩り」から逃れるため転々と逃亡した。この体験がポランスキーの作品に深く影響を与えることとなった。
第二次世界大戦終結後にポーランドへ戻り、生き延びた父親と再会した。その後は映画に興味を持ち、ウッチ映画大学で学んだ後、冷戦下の1950年代にポーランドで俳優として活動を始める。いくつかのポーランド映画に出演後、自由な表現活動を求めてフランスに移った。
1962年に『水の中のナイフ』で監督デビューする。共産党一党独裁体制のポーランドでは黙殺されたが、西側諸国で絶賛された。その評判に惹かれるように1963年にイギリスへ渡り、映画『吸血鬼』などを製作する一方で、アメリカのヒューストンに居を構える。
シャロン・テートとの結婚と悲劇
『吸血鬼』に出演した女優シャロン・テートと1968年に結婚する(2度目の結婚)。しかし翌1969年8月9日、テートは友人らとロサンゼルスの自宅でパーティーの最中、チャールズ・マンソン率いるカルト教団に襲われ惨殺された。当時、テートはポランスキーの子を身ごもっており、妊娠8ヶ月だった。
ポランスキーはロンドンで映画の脚本執筆中に悲報を受け、アメリカに帰国した。ロバート・エヴァンズの著書「くたばれ!ハリウッド」によると、ポランスキーは憔悴しきっており、医師による鎮静剤の投与が必要だったという。この事件でポランスキーは、当初マスコミの餌食となり、根拠のない中傷を受けた。
しかも、この悲劇は人違い殺人であった。事件が起きた邸宅は、ポランスキー夫妻が借りる前は、ドリス・デイの息子でミュージシャンのテリー・メルチャーが居住していた。ミュージシャン志望だったマンソンがメルチャーを訪ねたが、プロへの道に繋がらず、その逆恨みが襲撃の動機であった。
ポランスキーはアメリカに絶望するが立ち直り、作品を撮り続けた。しかし1977年にジャック・ニコルソン邸で、当時13歳の子役モデルに性的行為をした嫌疑をかけられ逮捕、裁判では司法取引により法定強姦の有罪の判決(実刑 懲役50年以上という換算)を受ける。ポランスキーは法廷の外では無実を主張し、「これは冤罪であり、本人は少女とその母親による恐喝の対象になっていた」と述べている。
ポランスキーは42日間の拘留後、釈放されている。しかし、事件の担当判事がポランスキーを投獄後、国外追放にすることを示唆、再び収監する旨を地方検事と彼の弁護士に告げた。保釈中に逃亡したことが通説となっているが、正確には釈放後の国外脱出である。彼は出廷を拒否。アメリカを捨てることを決意し、有効だったパスポートを手にロンドンへ渡航、その後パリへと移住した。以後、アメリカへ一度も入国していない。しかし、この件はアメリカの司法当局に遺恨を残し、チューリッヒでの身柄拘束に繋がることとなる。
1978年にフランスに移り、市民権を取得した。1979年の作品『テス』で主演をつとめることになるナスターシャ・キンスキーとは、彼女が15歳の頃から性的関係を結んでいた。2010年に女優のシャーロット・ルイスが「わたしもロマン・ポランスキーの被害者のひとり。彼は16歳のわたしに最悪の方法で性的虐待を加えた」と記者会見で公表、監督のアパートで虐待を受けたことを明らかにした。1989年に女優のエマニュエル・セニエと3度目の結婚をしている。
アメリカ脱出後は欧州を活動拠点にし、『フランティック』や『赤い航路』『死と処女』『ナインスゲート』など意欲的に作品を発表。2002年公開の『戦場のピアニスト』で第55回カンヌ国際映画祭パルムドール及びアカデミー監督賞を受賞した(上記の問題により逮捕・収監の可能性があるため授賞式には参加せず)。この受賞当時ポランスキーは69歳7ヶ月で、同賞の最年長受賞者となった。この記録はクリント・イーストウッドが74歳で受賞した2005年に破られた。また、自身が墓まで持っていきたい作品を問われ、『戦場のピアニスト』と回答している。
2009年9月、チューリッヒ映画祭の「生涯功労賞」授与式に出席するためスイスに滞在中、前述の少女への淫行容疑に関連してスイス司法当局に身柄を拘束された。アメリカは身柄引き渡しを要求したが、最終的にスイスはこれを拒否、2010年7月12日に釈放を決定した。
2010年には『ゴーストライター』で第60回ベルリン国際映画祭監督賞を受賞した。
その他
ポーランド語、ロシア語、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語に堪能。ただし英語には強い訛りがある。
主な作品
《監督》
水の中のナイフ N・z w wodzie (1962年)
世界詐欺物語 Le plus belles escroqueries du monde (1964年)
反撥 Repulsion (1965年)
袋小路 Cul-de-sac (1966年)
吸血鬼 The Fearless Vampire Killers (1967年)
ローズマリーの赤ちゃん Rosemary's Baby (1968年)
マクベス Macbeth (1971年)
ポランスキーの 欲望の館 What? (1972年)
チャイナタウン Chinatown (1974年)
テナント/恐怖を借りた男 The Tenant / Le Locataire (1976年)
テス Tess (1979年)
ポランスキーの パイレーツ Pirates (1986年)
フランティック Frantic (1988年)
赤い航路 Bitter Moon (1992年)
死と処女 Death and the Maiden (1994年)
ナインスゲート The Ninth Gate (1999年)
戦場のピアニスト The Pianist (2002年)
オリバー・ツイスト Oliver Twist (2005年)
それぞれのシネマ To Each His Own Cinema (2007年)
ゴーストライター The Ghost Writer (2010年)
おとなのけんか Carnage (2011年)
毛皮のヴィーナス La V・nus ・ la fourrure (2013年)
告白小説、その結末 D’après une histoire vraie (2017年)
オフィサー・アンド・スパイ J’accuse (2022年)
《出演》
世代 Pokolenie (1954年)マジック・クリスチャン The Magic Christian (1969年)
処女の生血 Blood for Dracula (1974年)
バック・イン・ザ・USSR Back in the U.S.S.R. (1992年)
他人のそら似 Grosse fatigue (1994年)
記憶の扉 Pura formalit・, Una (1994年)
ラッシュアワー3 Rush Hour 3 (2007年)
アカデミー賞
2002年度 監督賞『戦場のピアニスト』
ゴールデングローブ賞
1974年度 監督賞『チャイナタウン』
英国アカデミー賞
1974年度 監督賞『チャイナタウン』
2002年度 監督賞『戦場のピアニスト』
セザール賞
1979年度 監督賞『テス』
2002年度 監督賞『戦場のピアニスト』
2020年度 監督賞・脚色賞『J’accuse』
ヨーロッパ映画賞1999年度 世界的功績賞『ナインスゲート』
2006年度 功労賞
2010年度 監督賞、脚本賞『ゴーストライター』
カンヌ国際映画祭
2002年度 パルム・ドール『戦場のピアニスト』
ヴェネツィア国際映画祭
1962年度 国際映画評論家連盟賞『水の中のナイフ』
1966年度 イタリア批評家賞『袋小路』
1993年度 金獅子賞・特別功労賞、経歴賞
ベルリン国際映画祭
1965年度 銀熊賞『反撥』
1966年度 金熊賞『袋小路』
2010年度 銀熊賞『ゴーストライター』
.