From Russia with Love | hiroチャンのブログ

From Russia with Love


【イアン・フレミング】

Ian Fleming



誕生:1908年5月28日
イギリス ウェストミンスター・メイフェア
死没:1964年8月12日(満56歳没)
イギリス ロンドン
職業:作家、脚本家
国籍:イギリス
イアン・ランカスター・フレミング(Ian Lancaster Fleming)は、イギリス・ウェストミンスター・メイフェア生まれの軍人、冒険小説家。

ウェストミンスター・メイフェアで政治家の息子として生まれる。陸軍士官学校卒業後、銀行や問屋での勤務を経て、大手通信社のロイター通信で勤務し、後に支局長としてソビエト連邦のモスクワに赴任。
1939年から英海軍情報部(NID)に勤務。同年にイギリスも参戦した第二次世界大戦中は諜報員として活動し、「ゴールデンアイ作戦」などの指揮を執った。1945年の終戦後退役する。

その後、ジャマイカの別荘「ゴールデンアイ」に居住。1953年に、それまでの経験をもとに「ジェームズ・ボンド」シリーズ第1作となる長編『カジノ・ロワイヤル』を発表する。1964年、遺作となった『黄金の銃をもつ男』を校正中に心臓麻痺で死去(56歳)。


007シリーズ

映画からは窺えないが、著作(007シリーズ)内では食事シーンが実に克明に描かれており、フレミング本人も大変な美食家であったと伝えられている。そのためか、主人公のジェームズ・ボンドも不健康という設定であるが、フレミングもまた早い段階から心臓血管の疾患をかかえて生活しており、映画化された自分の作品は、映画における第2作『007 ロシアより愛をこめて』までしか目にすることができなかった。


1990年にイアン・フレミング自身を題材にした映画『スパイメーカー』が公開された。監督はフェルディナンド・フェアファックス、主演はジェイソン・コネリー(ショーン・コネリーの息子)。ただしこの作品の趣旨は「ヤング・ジェームズ・ボンド」とでも呼ぶべき、ボンドとフレミングを同一視したうえでその若い時代を描くという娯楽フィクションで、伝記ものではない。実際のフレミングは確かに海外情報部勤務であったがデスクワークが主体であり、任務を帯びて敵地に潜入する立場にはなかった。

妻は元ロザミア子爵夫人アン(旧姓チャータリス、1981年没、フレミングとは3回目の結婚)。息子はカスパー(1975年没)。従兄弟には『吸血鬼ドラキュラ』などに出演した俳優のクリストファー・リーがいる(リーは、映画『007 黄金銃を持つ男』で敵役であるスカラマンガを演じた)。また、『チャーリーとチョコレート工場』などの同じくイギリスの作家ロアルド・ダールと親交があり、ダールは『007は二度死ぬ』映画版の脚本を書いた。

長編
「ジェームズ・ボンド」シリーズ
『カジノ・ロワイヤル』Casino Royale (You Asked for It)(1953)
『死ぬのは奴らだ』Live and Let Die(1954)
『ムーンレイカー』Moonraker(Too Hot to Handle)(1955)
『ダイヤモンドは永遠に』Diamonds are Forever(1956)
『ロシアから愛をこめて』From Russia with Love(1957)『007』シリーズ長編第5作目。1957年、ジョナサン・ケープより出版され、日本では1964年に東京創元社から井上一夫訳により創元推理文庫で発売されているが、タイトルは映画版と異なり『007 ロシアから愛をこめて』である。
『ドクター・ノオ』 Doctor No(1958)
『ゴールドフィンガー』Goldfinger(1959)
『サンダーボール作戦』Thunderball(1961)
『わたしを愛したスパイ』The Spy Who Loved Me(1962)
『女王陛下の007』On Her Majesty's Secret Service(1963)
『007は二度死ぬ』You Only Live Twice(1964)
『007号/黄金の銃をもつ男』The Man with the Golden Gun(1965)
『チキ・チキ・バン・バン(空とぶ自動車)』Chitty-Chitty-Bang-Bang(1964)
短編集
『007号の冒険』 For Your Eyes Only: Five Secret Occasions in the Life of James Bond(1960)
新版では「バラと拳銃」と改題、その後また「薔薇と拳銃」と改題
「バラと拳銃」From a View To A KIll
「読後焼却すべし」For Your Eyes Only
「ナッソーの夜」Quantum of Solace
「危険」Risico
「珍魚ヒルデブランド」The Hildebrand Rarity
『007号/ベルリン脱出』 Octopussy and the Living Daylights(1966)
新版では「オクトパシー」と改題
「007号の追求」Octopussy
新版では「オクトパシー」と改題
「007号の商略」Property of A Lady
新版では「所有者はある女性」と改題
「007号/ベルリン脱出」The Living Daylights
新版では「ベルリン脱出」と改題
ノンフィクション
『ダイヤモンド密輸作戦』 The Diamond Smugglers(1957)
『007号/世界を行く』Thrilling Cities(1963)
『続007号/世界を行く』Thrilling Cities(1963)
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【ゴールデンアイ作戦】
(Operation Goldeneye)
第二次世界大戦中に連合軍が遂行した特殊作戦である。当時枢軸国に接近しつつあったフランシスコ・フランコ将軍のスペインを監視し、また同盟を阻止するべく各種サボタージュを行う事が目的であった。英海軍情報部(NID)のエージェントだったイアン・フレミング中佐によって指揮された。
1943年、情勢を鑑み以後スペインの枢軸国加盟は起こり得ないと判断され、作戦は終了した。「ゴールデンアイ」という語は、後に作家に転じたフレミング中佐により、彼がジャマイカに建てた別荘の名前や『ジェームズ・ボンド』シリーズのタイトルに使われた。

作戦の目的は、スペインが何らかの理由から枢軸国に加盟、あるいは侵略された場合においてもジブラルタル海峡におけるイギリス軍の交通を確保する事であり、これの達成の為にごく限られた規模でサボタージュが行われた。1940年8月、NIDのイアン・フレミング中佐が計画責任者に任命される。フレミングは作戦遂行にあたり、レーダー装置と赤外線カメラの設置の可能性を特に懸念していた。これは英国海軍にとって地中海における戦略上の脅威であり、また連合軍の大西洋向け輸送における脅威でもあった。
フレミングは外交特使(courier)の身分でパスポートを発行し、1941年2月16日よりジブラルタルに潜入した。到着後、彼はマドリード駐在の英海軍武官アラン・ヒルガースとの連絡を確保する。ヒルガースはイベリア半島に所在するドイツ軍の情報や、ゲリラ戦およびサボタージュに関する作戦立案に協力した。フレミングのジブラルタル潜入の主な目的は、ゴールデンアイ作戦の為にロンドンと安全な連絡を確保して連絡拠点を設置する事であり、連絡拠点の監理はNIDエージェントのH・L・グリーンスリーブス(H.L. Greensleeves)に一任された。また万が一ジブラルタルがドイツ軍に占領された場合の代替として、タンジールにも同様の連絡拠点を設置している。なお、この最中に彼は査察旅行の最中だったOSS長官ウィリアム・ドノバンと出会っている。1941年2月26日、フレミングはロンドンに戻る。
1941年5月20日、米国派遣の途中に立ち寄ったリスボンにて、フレミングは多くの諜報関係者らと会談し、ゴールデンアイ作戦の遂行に関する協力を取り付ける。 これと共に作戦開始に向けて機材・施設の点検も行っている。アングロ・アメリカ諜報委員会(Anglo-American Intelligence Committee)では北アフリカ、イベリア半島での活動に向けた調整を行った。
1942年、連合軍の北アフリカ侵攻(トーチ作戦)を控える中、ゴールデンアイ作戦の続行が危うくなる。枢軸国ではサボタージュ等の発生を警戒して監視を強化し、イタリア海軍の精鋭フロッグマン部隊である第10魚雷艇団を派遣して連合軍輸送船団への攻撃を激化させたのである。
1943年8月、スペインの枢軸国参加の可能性が低下した為、ゴールデンアイ作戦は共に展開されていたトレーサー作戦と共に中止された。

フレミングの別荘「ゴールデンアイ」。彼はここで『ジェームズ・ボンド』シリーズの執筆を行った。
戦後、フレミングはジャマイカに別荘を購入し、これに作戦名から取った「ゴールデンアイ」という名前を与え、ここで『ジェームズ・ボンド』シリーズの執筆を行った。また、『ジェームズ・ボンド』シリーズの映画『007 ゴールデンアイ』のタイトルもこの作戦名に因む。

サボタージュ作戦は特殊作戦執行部(SOE)のセクションHにより実施された。
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