やむを得ず参加した『子猫と種馬のパーティ』 | hiroチャンのブログ

やむを得ず参加した『子猫と種馬のパーティ』


【シルヴェスター・スタローン】
Sylvester Stallone



本名:シルヴェスター・ガーデンツィオ・スタローン
Sylvester Gardenzio Stallone
別名義:Sly(スライ),Syl(シル)
生年月日:1946年7月6日
出生地:アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区
身長:178cm
ジャンル:映画(俳優・監督・製作・脚本家)
活動期間:1968年-
活動内容:1970年:デビュー
配偶者:サーシャ・チャック(1974年-1985年)
ブリジット・ニールセン(1985年-1987年)
ジェニファー・フレイヴィン(1997年-)
著名な家族:フランク・スタローン・シニア(父)
ジャッキー・スタローン(母)
フランク・スタローン(弟)
セイジ・スタローン(息子)

アメリカ合衆国の俳優、映画監督、脚本家。1970年代から1990年代のアクション映画を代表するスター。70歳を超えた現在でも、鍛え上げた肉体で激しいアクションをこなす映画俳優である。

ニューヨーク・マンハッタン区の“ヘルズ・キッチン”地区出身。父はシチリアにルーツを持つイタリア系アメリカ人の美容師、母はロシア系ユダヤ人およびフランス系アメリカ人で、元ダンサーで占星術師として著名なジャッキー・スタローン。弟のフランク・スタローンは歌手兼俳優として、兄の主演、監督映画数作に端役で出演、または主題歌、挿入歌を提供している。1人目の妻との間に生まれた長男のセイジ・スタローンも映画監督、脚本家、俳優として父と同じ道を歩むが、2012年、心臓発作により急逝した。 


出産時に産科医が鉗子の扱いを誤り、顔面の左側(特に唇、顎、舌)の神経が傷つけられたため、言語障害(舌足らずな発音)と下唇の下垂という症状が残った。このことは少年期のスタローンを内向的にさせ、空想や漫画、特に映画へ興味を向けさせた。


12歳の時に両親が離婚したことを切っ掛けに次第に素行不良になる。小学校から高等学校修了までに14の学校から放校処分を受け、再婚した母親の経営するボクシングジムで体を鍛えながらも荒れた生活を続けた。当初はボクシングジムに見向きもしなかったが、この頃に観賞した映画『ヘラクレス』(1958年)の主演スティーヴ・リーヴスの影響により、自ら体を鍛え始めるようになったという。


高校卒業後は美容師学校へ進んだが中退し、レザンにある American School of Switzerland に体育奨学金を得て入学し、演劇を学んだ。アメリカに戻りマイアミ大学の演劇学部に3年間在籍したが、脚本家を志すため中退した。23歳でニューヨークに戻り本格的に俳優を志す。


極貧生活からのスタートでスタローンが初主演した映画は1970年のポルノ映画 The Party at Kitty and Stud's(子猫と種馬のパーティ)である。当時は極度の困窮生活で、出演はやむにやまれぬ事情だったとスタローンは述べている。

同じく1970年には No Place to Hide(隠れ場無し)というコメディ映画に主演した。1971年にはオフ・ブロードウェイの小劇場で Score というアダルト劇の舞台に立っている。このようにポルノ映画への出演やボディーガードなどをこなして日銭を稼ぐ極貧生活が長く続いた。顔面麻痺による演技力の限界や、あまりにも典型的なシチリア人の風貌のため54回のオーディションに落ちる。


1974年に出演した『ブルックリンの青春』(The Lords Of Flatbush)での演技が何人かの評論家の目にとまり、スタローンは妻と愛犬を伴ってハリウッドへ移った。1975年には『デス・レース2000年』に準主役として出演した。『ロッキー』の半年前である。


1975年、29歳の時、観戦したボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチ「モハメド・アリ対チャック・ウェプナー」の試合に感銘を受け、それをヒントにわずか3日で書き上げた脚本をもって映画会社に売り込む。脚本が気に入った映画会社は一線級スター(ロバート・レッドフォードらが候補)を主役にした大作として製作しようとしたが、スタローンは自分を主役にしないなら脚本は渡せないと固辞、結局主張は認められた。この作品こそ『ロッキー』である。もっとも無名俳優の主演作品のため低予算のB級扱いとなり、わずかな上映館でのスタートとなった。


しかし徐々に大評判を呼ぶことになり、世界的規模で大ヒット、遂には同年のアカデミー作品賞を受賞する。映画の主人公の境遇とスタローン自身のそれが「荒んだ生活から一夜にして栄光を掴む」という古典的なまでの「アメリカン・ドリーム」を体現した点で共通していることから大変な話題を呼び、多くの人間に希望を与えた功績が評価された。



その後『パラダイス・アレイ』で監督業にも進出。様々なジャンルに挑戦し続けるが『ロッキー』シリーズ以外は興行的に成功することがほとんどない状態が続く。1982年の『ランボー』でようやくロッキー・バルボア以外の役をヒットさせることに成功。以降ランボーはロッキーと並ぶスタローンの代表作となった。


その後は『クリフハンガー』など、常に鍛え上げた肉体を駆使した作品でアメリカを代表するアクション俳優となる。2006年、シリーズ16年ぶりの新作となる『ロッキー・ザ・ファイナル』 が公開され、2008年には、20年ぶりの新作となる『ランボー/最後の戦場』が公開された。


2010年12月7日、一連の『ロッキー』シリーズのボクシング映画製作などが評価され、国際ボクシング殿堂顕彰者に選出された。


2015年に公開された映画『クリード チャンプを継ぐ男』で再度ロッキー・バルボアを演じ、その演技が批評家から絶賛され、2016年の第73回ゴールデングローブ賞では自身初の助演男優賞を受賞した。

『ロッキー』で共演し、長年の親友であるタリア・シャイアが実兄であるフランシス・フォード・コッポラに『ゴッドファーザーPARTIII』にスタローンを出演、または監督させる約束を取り付けたがコッポラがいずれも反故にしてしまったため、両人の間に亀裂が生まれてしまった。

彼が監督や脚本まで担当した『ランボー/最後の戦場』や『エクスペンダブルズ』などの戦場が舞台になる作品では、人体破壊・肉片が飛び散るなどのゴア表現がかなり見られる。また、素早いカットを多用してスピード感溢れる演出にすることで戦場での緊迫感を醸し出している。
俳優としては鍛え上げられた肉体を全面に押し出したアクションが売りである。もともと顔面神経麻痺や言語障害があり、決して表現力に長けているとは言えないものの、役作りに対してはストイックに取り組むことでも知られる。『コップランド』では冴えない中年警官を演じるために肉体派俳優の生命線である肉体をあえて増量し、『ランボー』ではノースタントで崖から飛び降り肋骨を数カ所骨折している。

スタローンは計3回の結婚歴があり、二男三女をもうけている。
下積み生活中の1974年にサーシャ・チャックと結婚。俳優・映画監督のセイジ・スタローンら二人の男児をもうけた後、1985年に離婚。
1985年に『ロッキー4/炎の友情』『コブラ』で共演したブリジット・ニールセンと再婚し1987年に離婚。
現在の妻は女優・モデルのジェニファー・フレイヴィン。1996年に一女をもうけ、1997年結婚、のち更に二女をもうけた。
2017年、第74回ゴールデングローブ賞では、長女ソフィア、次女システィーン、三女スカーレットがミス・ゴールデングローブ(授賞式のアシスタント役)に選ばれている。

幼少の頃から大天使ミカエルの洗礼名を持つローマ・カトリックのキリスト信者である。『ロッキー・ザ・ファイナル』公開の時にはキリスト教原理主義系の番組に出演し、自身の信仰について語った。


熱心な共和党員で、政治的な発言も多い。2008年の大統領選挙では同党候補ジョン・マケインへの応援活動を行った。また、その影響が自身の作品に色濃く現れる事もあった(『ランボー/怒りの脱出』、『ランボー3/怒りのアフガン』、『ロッキー4/炎の友情』等の脚本)。一方殺傷能力の高い自動小銃などの保持に対しては批判的であり、2013年には「猟銃にも使えないし、軍に襲撃されるわけでもないのに何に使おうというのか」とコメントしている。

つづく・・・。