狙われたガーフィールド | hiroチャンのブログ

狙われたガーフィールド


ガーフィールドって言うてもなぁワシが撃たれたんとちゃいますぅ







【ガーフィールド大統領暗殺事件】
James A. Garfield assassination
1881年7月2日に、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で起こった。ガーフィールドは、第20代大統領としての就任から4ヶ月足らずのこの日午前9時半にチャールズ・J・ギトーに銃で撃たれ、11週間後の9月19日に死亡。



アメリカ合衆国の大統領として暗殺された4人のうち、エイブラハム・リンカーンに次いで2人目である(後の2人はウィリアム・マッキンリーとジョン・F・ケネディ)。ガーフィールドの死にともない、チェスター・A・アーサーが大統領を継いだ。

暗殺犯チャールズ・J・ギトーは色々な職業に手を出して失敗していた。神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キリストの再臨を信じる共同社会)、その後に興味は政治に向かった。「グラント対ハンコック」というユリシーズ・グラントを支持する演説原稿を書き、ガーフィールドが1880年の大統領選挙で共和党の指名を勝ち取った後にそれを改訂して「ガーフィールド対ハンコック」とした。ギトーは公衆の前でその演説を行ったことはなく、その代わりに数百部の写しを印刷したが、この演説原稿がその他の自分の行動と共に大統領選におけるガーフィールドの政治的勝利に大きく貢献したと信じた。ギトーはその重大な援助に対して大使の職に値する報償を受けてもよいと信じ、まずはウィーン、続いてパリの職を求めた。1880年の大統領選挙の間、ニューヨーク市の政府機関の辺りをうろつき回り、その努力に対する報償を期待したが、何の益もなかった。ギトーは依然として報償が貰えると考えたまま、ガーフィールドが就任宣誓を行った翌日の3月5日にワシントンに到着し、実際にホワイトハウスに入り込み、3月8日に大統領に会って自分の演説原稿の写しを置いていった。次の2ヶ月間はワシントンを歩き回って過ごし、国務省とホワイトハウスの間を行ったり来たりし、様々な閣僚や他の著名な共和党員に接触したが、効果は無かった。
ギトーは感謝の念を持たない大統領を殺すよう神が自分に指示していると心に決めた。50ドルを借金しリボルバーを買いに行った。武器のことはほとんど知らなかったが、大口径の銃を必要とすることは分かった。.44口径のブリティッシュ・ブルドッグ・リボルバーで銃杷が木製か象牙製かを選ぶ必要があった。象牙製のものが暗殺の後で博物館に展示されたときに見栄えが良いと思ったのでそれを選んだ(そのリボルバーはスミソニアン博物館に納められていない。撃った後で失われてしまった)。
ギトーは慎重に準備を続け、あるときガーフィールドが鉄道の駅でニュージャージーのロングブランチ海岸に保養にいく妻を見送るところに行き当たったが、ガーフィールド夫人は健康が勝れず、彼女を動揺させたいとは思わなかったので、ガーフィールドを撃つ事を後日に回した。

ガーフィールドは夏の休暇で7月2日にワシントンを離れることを予定していた。その日、ギトーはワシントンD.C.の現在は6番街北西とコンスティチューション・アベニューの南西角にあったボルティモア・ポトマック鉄道の駅(現在は壊されている)で大統領を待ち伏せた。
駅に来たガーフィールド大統領。2人の息子ジェイムズとハリーを伴っており、また国務長官のブレインも同行した。陸軍長官のロバート・トッド・リンカーンが大統領を見送るために駅で待った。ガーフィールドはボディガードや警護特務部隊を連れていなかった。南北戦争の時のエイブラハム・リンカーンという例外はあったが、このころまでアメリカ合衆国の大統領が護衛を使うことは無かった。
ガーフィールド大統領が駅に入ってくると、ギトーは前に出て背後の至近距離から引き金を引いた。ガーフィールドは「おゝこれは何だ」と叫んだ。ギトーは再度発砲し、ガーフィールドは倒れた。1発はガーフィールドの腕を掠め、もう1発は背面から腰椎に入ったが、脊髄は外れた。
ギトーは拳銃をポケットに戻し駅を離れたが、立ち去る前に警官のパトリック・カーニーに取り押さえられた。カーニーは大統領を狙撃した男を逮捕したことで興奮しており、警察署に着いた後までギトーの拳銃を抑えることを失念していた。急速に集まった群衆が「やつをリンチにしろ」と叫んだが、カーニーは数ブロック離れた警察署までギトーを連行した。ギトーは警察に逮捕されても、勝ち誇ったような言葉をどこでも繰り返しつぶやいた。「私はストールワーツの中のストールワーツだ。..今やアーサーが大統領だ!!」この言葉でチェスター・アーサーあるいはその支持者がギトーを使って犯罪を行わせたという根拠の無い憶測が短期間生まれた。ストールワーツとは前大統領のグラントに忠実な共和党の派閥だった。彼らはガーフィールドのハーフ・ブリード派に強く対抗していた。その頃の他の多くの副大統領と同様に、アーサーは政治的手腕や大統領への忠実さというよりも、その派閥を抑えるという政治的利点のために選ばれていた。ギトーはその妄想の中で、共和党の2つの派閥を統合するために一撃を加えるのだと確信していた。

ガーフィールドは意識があったが、ショックを受けており、弾丸の1発は体内に留まっていたが、医者はそれを見つけられなかった。息子のジェイムズとジェイムズ・ブレインは取り乱して泣いていた。ロバート・トッド・リンカーンは本当に動転しており、その父(エイブラハム・リンカーン)の死を思い出して、「この町ではどれだけ多くの時間を悲しみの中で過ごしたことか」と言った。
ガーフィールドはホワイトハウスに連れ戻された。医師たちは今夜は持たないだろうと告げたが、大統領は死ななかった。まだ意識ははっきりしていた。翌朝、生命兆候は良好であり、医師たちは回復を期待し始めたが、その容態は不安定だった。
医師たちはガーフィールドの傷を消毒していない汚れた指や器具で探り続け、当てずっぽうで弾丸の場所を見つけ出そうとした。アレクサンダー・グラハム・ベルはガーフィールドの体内に留まっている弾丸を探すという特別の目的のために金属探知機を発明したが、ガーフィールドが寝ている金属枠のベッドのために誤反応を起こした。
7月29日、ガーフィールドは闘病中に唯一度閣僚達と面会した。閣僚達は医師から動揺させるようなことを議論してはならないと厳しく諭されていた。ガーフィールドは感染症のためにその数週間で病状が悪化しており、その心臓を弱らせていた。熱と激痛のためにホワイトハウスで寝たきりになっていた。吐き気を抑えられず消化が苦痛になっていたので、200ポンド (90 kg)以上あった体重が135ポンド (60 kg)まで落ちていた。敗血症と感染症が進行し、短期間幻覚を見るようになった。
9月6日、ガーフィールドはワシントンの暑熱を逃れるためにニュージャージーの海岸に移されたが、これは新鮮な空気と静穏さが回復を助けるかもしれないという淡い期待からであった。新しい感染症が進行し、狭心症の痙攣が起こった。敗血症と気管支の肺炎に続いて、強い心筋梗塞あるいは脾動脈瘤破裂のために、1881年9月19日月曜日午後10時35分、ニュージャージー州ロングブランチのエルベロン地区で死去した。49歳10か月。狙撃から死までの80日間で行った公務は、1通の犯罪者引渡し書に署名したことだけだった。

ガーフィールドの遺体はワシントンに移され、議事堂のロタンダで2日間安置された後に、クリーブランドに移されて、9月26日に葬儀が行われた。

ギトーはガーフィールドの殺人が神の意思であり、自分は神の意思を実行する道具に過ぎないので、自分は無罪と主張した。
ギトーの裁判は精神異常が検討されたが、陪審員がギトーは単に責任を逃れようとしていると見なしていた。

ギトーは釈放が近づいていると考えた後は講演旅行を始め、1884年の大統領選挙には自ら出馬する計画を積極的に立てており、それと同時に裁判を取り巻く報道合戦を楽しみ続けた。陪審員が彼の神の啓示について納得できず、殺人罪で有罪としたときは落胆した。1882年1月25日に有罪が確定した。ギトーは控訴したが、棄却され、1882年6月30日にワシントンD.C.で絞首刑になった。


.