歪んだ愛のカタチ・・・。- 1 - | hiroチャンのブログ

歪んだ愛のカタチ・・・。- 1 -


1982年6月21日
レーガン大統領暗殺未遂事件の犯人、ジョン・ヒンクリーに無罪判決。

【ジョン・ヒンクリー】
John Hinckley
1981年3月30日に当時アメリカ合衆国大統領だったロナルド・レーガンを狙撃した犯人。
本名:ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニア
John Warnock Hinckley, Jr.
生誕:1955年5月29日
アメリカ合衆国・オクラホマ州アードモア
現況:釈放
罪名:暗殺未遂
刑罰:精神異常が理由で無罪
有罪判決:殺人未遂など13の罪

映画『タクシードライバー』に出演したジョディ・フォスターに恋し、ストーキングを行い、同映画のストーリーに影響を受け大統領暗殺未遂という事件を起こす。

父ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・シニア、母ジョアン・ムーア・ヒンクリー、3人兄弟の末っ子としてオクラホマ州アードモアで生まれた。父親は、軍隊を経て、戦後石油業界で活躍し、自ら石油会社「ヴァンダービルト・エナジー」社を設立、社長として成功し財をなしていた人物であった。
ジョンにはスコットという優秀な兄がいた。弟のジョンはスポーツもせず、友人も作らず、女の子とデートもせず、家に引きこもりの日々を送っていた。兄が優秀でエリートの道を進みつつあったのに対し、ジョンは落ちこぼれてしまい、精神的に追い込まれてゆく。1973年から1980年までテキサス工科大学で休学と復学を繰り返す。1976年にはソングライターになるとロスに行くが成功はしなかった。
結局、両親宅へ戻り地元のレストランで下働きのアルバイトを数か月したのち、再び大学生活をしていた。このころ体調不良を訴え大学のクリニックにしばしば通い、精神安定剤や抗うつ薬を飲み始める。
1979年には、白人優位と保守主義を唱える政治サークルを結成し、1980年には「リストアロット」という名簿販売会社を設立。
映画『タクシードライバー』を観たヒンクリーは、同映画の中で売春婦の少女を演じたジョディ・フォスターに一目惚れし、自分の「運命の女」だと思い、偏執的な恋心を抱くようになる。ジョディが映画スターの道を歩んでいるのに対し、ジョンは人生に行き詰まっており、二人には何の縁もなく、近づくことも叶わなかった。
フォスターがイェール大学に入学したことを知ると、それを利用してフォスターに接近する方法を探った。しかし、イェール大学は全米ランキング4位に位置する名門大学・難関大学であり、成績も悪い落ちこぼれたヒンクリーが同大学に入学することなどできなかった。そこで彼が思いついたのは同大学の聴講生になることであった。聴講生としてならば特に難しい試験・面接など経なくても簡単な手続きで同大学の教室で講義を聴くことはできた。ヒンクリーはコネチカット州ニューヘブンに引っ越し、同大学でフォスターが選択・出席している講座・教室を調べ潜り込んだ。だが大教室でフォスターの姿を見つけても、ヒンクリーは声をかけることもできなかった。
ヒンクリーはフォスターを執拗につけ回し、彼女のアパートや電話番号などの情報を調べた。彼女の自宅のドアの下に自作の詩を書いたメッセージを挟み込んだり、繰り返し電話をかけるなどストーキング行為を繰り返す。ヒンクリーの気持ちとしては、自分は映画の主人公のようにフォスターを救う騎士のつもりであった。だが、ヒンクリー自身が残した電話の会話の録音には、(第三者が聞けば)フォスターからはっきりと拒絶されていると判るやりとりがあったのである。
後の捜査や裁判で提出された証拠・証言類によると、ヒンクリーが電話でフォスターに接触するのに成功したのは2度。フォスターは2度目の電話ではっきりときつい口調で、「もう電話をかけてこないで」と伝えた。(そのやり取りは証拠として提出された録音に残っている。)それ以降、ヒンクリーは何度フォスターの番号をダイヤルしてもつながらなくなった。というのは、フォスターが自分の身辺で起きているいくつもの兆候から異常を感じ取り、誰からの電話にも一切出なくなったのである。
フォスターの注意を引くために、飛行機をハイジャックし彼女の前で自殺するという計画を考えたが、それは断念。ヒンクリーは「自分が大統領暗殺という大事をやり遂げれば、フォスターが自分を認めてくれる」との妄想に基づいて、大統領の暗殺を企て始める。
ヒンクリーが大統領暗殺を考え始めた当時はジミー・カーター大統領の在任中で、警備が厳重なので簡単には狙撃を実行できず、テネシー州ナッシュヴィルで重火器不法所持の罪で逮捕された。
無一文になった彼は家に帰り、神経衰弱と抗うつ薬の飲み過ぎを案じた母親によって地元の精神科医に連れていかれたが、改善しなかった。このころFBIに「恋愛問題が理由でフォスターが何者かに誘拐される恐れがある」と匿名の手紙を出す。
1980年にジョン・レノンが射殺されると、ビートルズの大ファンだったヒンクリーはニューヨークに飛び、セントラルパークの追悼集会に参加。帰郷後、射殺犯マーク・チャップマンが使ったのと同じ銃を購入。
1981年、レノンの命日には事件現場で自殺しようとダコタ・ハウス前に行ったが、果たせなかった。実家に戻ると、自立するよう父親に言われ、多少の金を渡され家を出される。
再び大統領の暗殺を企て、新たに大統領に就任したロナルド・レーガン大統領を狙撃することを計画し始める。
ヒンクリーはレーガン狙撃事件の直前にフォスターに宛てた手紙を書いた。
『過去7ヶ月にわたって私はあなたに対して多くの詩、手紙、愛のメッセージを送りました。そうすればあなたは私に興味を持ってくれるかも知れない、という望みは虚しいものとなりました。私たちは2度電話で話したが、私はあなたに厚かましく近づいて自己紹介することはありませんでした...。 私が今この計画を進めるのは、もうこれ以上、あなたに憶えてもらうことを待ってはいられないからです。-ジョン・ヒンクリー Jr.』

1981年3月30日、ワシントンD.C.のヒルトン・ホテルでレーガンがAFL-CIO会議で演説した後にホテルを出たところで、ヒンクリーは拳銃を続けざまに6発発射。弾丸は(大統領専用車両に跳ね返って)レーガン大統領の胸部に命中、報道担当官ジェイムズ・ブレイディ、警官トマス・デラハンティ、シークレット・サービスのティモシー・マッカーシーにも当たり負傷させた。ヒンクリーはその場で身柄を拘束された。
レーガン大統領はジョージ・ワシントン大学病院で(4時間におよぶ)緊急手術を受け助かった。報道官ブレイディは頭部に弾丸を受けたため重い障害が残ってしまう。マッカーシーとデラハンティは幸いにも軽傷で済んだ。
ヒンクリーの使用した銃はローム RG-14 リボルバー22口径、1と7/8インチの銃身長であった。シリアルナンバーはL731332。

ヒンクリーは1982年の裁判では13の罪で起訴された。裁判の重要な争点の一つはヒンクリーの精神状態をどう見なすかという点。弁護側が提出した精神医学上の報告書では、彼は精神の病気に罹っているとされたが、検察当局の報告書では法律上健全であるとした。結局、6月21日に「ヒンクリーは精神の病気にかかっており、責任能力がない」との判断で無罪判決が出された。
ヒンクリーは、精神の病気で責任能力がないと判断され、無罪判決になった被告人を処遇する法律に基づいて、ワシントンD.C.の聖エリザベス病院に強制隔離入院させられた。ヒンクリーは両親の監督下に1999年に仮退院を許可され、2000年には監督なしでの仮退院が許可された。その後ヒンクリーがフォスターに関する資料を密かに病院に持ち込んでいたことが判明したが、2016年7月釈放が許可された。8月5日に釈放され以後母親と同居している。9月10日には精神科病院を退院。
ヒンクリーに対して無罪判決が出たことは米国社会で広く波紋を引き起こした。大半の米国市民も納得できず、判決を下した裁判所にも一般市民から抗議の手紙が一千通以上届いたという。 そうした抗議の反応は、下院議会および多くの州において精神異常者の犯罪に対する法律を改正することにつながった。アイダホ、カンザス、モンタナ、ユタの四つの州が免罪措置を全て廃止された。
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