不倶戴天?口封じ?真相は闇のなか・・・。 | hiroチャンのブログ

不倶戴天?口封じ?真相は闇のなか・・・。


1985年

豊田商事会長刺殺事件。悪徳ペーパー商法で総額2千億円を騙し取った豊田商事の永田一男会長が、自宅に押し入った2人組に刺殺される。この時、自宅に押し寄せていた大勢のマスコミを前に男達は犯行予告をしながらも、その場にいた誰も止めなかった。


【豊田商事会長刺殺事件】
場所:日本 大阪府大阪市北区
標的:永野一男(会社会長)
日付:1985年6月18日(日本時間)
攻撃側人数:1名
武器:銃剣
死亡者:1名
犯人:2名
豊田商事会長刺殺事件は、1985年(昭和60年)6月18日に発生した殺人事件である。
豊田商事は現物まがい商法による悪徳商法によって被害者数は数万人、被害総額は2000億円の巨大詐欺事件を起こした会社として社会的に注目されていた。
1985年6月18日、大阪市北区にあった永野一男豊田商事会長の自宅マンションの玄関前に「今日逮捕」との情報を聞きつけてマスコミ取材班が集まっていた。
午後4時30分過ぎ、被害者の元上司に当たる自称右翼の男2人IとYが永野会長の部屋の前に姿を現した(現れた直後にマスコミから素性を訊かれた際には「鉄工所の経営」と答えている)。2人は張り込んでいたガードマンに「永野に会わせろ」と要求。連絡を取るためにガードマンが階下に下りた後、2人は元部下の被害者6人から「もう金はええ、永野をぶっ殺してくれ」と頼まれたと報道陣に語った。
そして窓の格子を蹴破り、窓ガラスを破って侵入、永野会長の頭部など全身13箇所を銃剣で刺した。当時、永野会長の住んでいた部屋のドアの前などには大勢のマスコミがいたが、誰も止めようとはしなかった。永野会長は直ちに病院へ運ばれたが、腹部を刺されたのが致命傷となり、出血多量により約45分後の午後5時15分に息を引き取った。この時の永野会長の所持金はわずか711円だった。部屋から出た犯人らは、「警察を呼べ。俺が犯人や。」と報道陣に語り、マンションから出たところで逮捕された。
また、加害者2人は右翼であるためか、部屋から出てきた直後に皇居の方角に向かって土下座をしていた。さらに、マスコミの質問に答えたあと、エレベーターに乗り、マスコミにタバコを要求した。そして、駆けつけた警察官に現行犯逮捕された。
毎日放送報道局社会部の記者として永野会長の部屋の前の廊下に居合わせたN記者は、加害者へのインタビューを試みる一方で、近隣の住民を通じて現場を管轄する天満警察署へ通報。現場界隈を警ら活動中だった同署の巡査にその一報が伝わったことから、加害者の逮捕に至った。逮捕の直前には、通報を受けて駆け付けた警察官に向かってマンションの入口で「(加害者を)早く逮捕せいや」などと叫んだところ、加害者から殴打されるという一幕もあった。N記者の証言によれば、豊田商事事件の捜査を兵庫県警察が一手に担っていたことなどから、大阪府警察では現場のマンションを特に警備していなかったという。
永野会長が惨殺された際の映像(永野会長は室内にいたため殺害そのものの様子は写らなかったが、上記の犯人の侵入の様子および、窓際に置き去りにされた血塗れの永野会長がストレッチャーで運ばれる様子が映像に残された)はNHKニュースや民放テレビ各局で中継された。この時NHKは「子供には見せないでください」と慌ててアナウンサーが呼びかけた。その後発売された『FOCUS』では、犯人の1人が血塗れで断末魔の形相の永野会長を抱え、もう1人が銃剣を持つ写真が誌面を飾った。
読売新聞が読者投票で選ぶ1985年の日本10大ニュースでは、この惨殺事件が日本航空123便墜落事故に次いで第2位に選ばれた。
その後の詐欺事件の捜査で、豊田商事が集めた金のほとんどが流用され残っていなかったことが判明するが、最高幹部が死亡したため金の流れに関して解明が難しくなった。結果的に捜査に支障をきたしたため、犯人は関係者に口封じのために殺人を依頼されたのではないかといった憶測も流れた。
1986年3月12日、大阪地裁でIに対し懲役10年、Yには懲役8年の実刑判決を言い渡された。それぞれが控訴し、1990年、1989年に刑が確定した。
その後、犯人の1人は周りにいたマスコミに犯行の示唆教唆があったとして4度再審請求をしたが、いずれも棄却されている。
その他
当時、似たような悪徳商法事件として騒がれていた投資ジャーナル事件を起こした中江滋樹会長が、刺殺事件翌日の6月19日に逮捕された。これは、前日の「永野刺殺」の二の舞を避けるための駆け込み逮捕と言われた。


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