国への忠誠心が、歪んだ復讐へと駆り立てたもの・・・。 | hiroチャンのブログ

国への忠誠心が、歪んだ復讐へと駆り立てたもの・・・。


【ティモシー・マクベイ】

Timothy McVeigh



生誕:1968年4月23日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州
ペンドルトン
現況:死没
死没:2001年6月11日(満33歳没)
アメリカ合衆国 インディアナ州テレホート
職業:警備員
罪名:殺人
刑罰:死刑
有罪判決:第一級殺人罪

ティモシー・ジェームズ・マクベイ(Timothy James McVeigh)はアメリカの元死刑囚。1995年4月19日に発生したオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の主犯である。

【オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件】
(Oklahoma City bombing)

場所:オクラホマ州オクラホマシティ/アルフレッド・P・マラー連邦ビル
1995年4月19日にアメリカ合衆国オクラホマ州の州都オクラホマシティで発生した爆破テロ事件。
元陸軍兵士のティモシー・マクベイらが車爆弾でオクラホマシティ連邦地方庁舎を爆破し、子供19人を含む168人が死亡、800人以上が負傷した。2001年の9・11テロが発生するまでは、アメリカ国内で最悪のテロ被害をもたらした事件。

主犯のマクベイは1968年4月23日、ニューヨーク州西部のバッファロー近郊の町ペンドルトンでアイルランド系カトリック教徒の家に生まれた。ペンドルトンは極めて保守的な町であり、人口構成も90%が白人であった。
家族構成は2歳上の姉と6歳下の妹、両親の5人家族だったが、両親は彼が10歳の時に離婚した。
高校卒業後地元のコミュニティーカレッジに進学しコンピューターの勉強をするも「飽きた」として唐突に退学。

1988年アメリカ陸軍に入隊。マクベイはアメリカ陸軍の一兵士として湾岸戦争に従軍し、ブロンズ・スター・メダルを授与される。湾岸戦争前にカンザス州のフォート・リレイ基地に所属しトップクラスの狙撃成績を残している他、湾岸戦争では1発の銃弾でイラク兵2名を射殺した。マクベイは極めて優秀な兵士として表彰され、新兵の訓練所で講義をする事もあった。陸軍の特殊部隊グリーン・ベレーに入りたがっていた。マクベイは湾岸戦争終結後、グリーン・ベレー部隊編入の訓練プログラムに登録したが、訓練開始二日目に体力的な理由から外された。湾岸戦争で身体が鈍っていたのである。自分が外された事に大きく落胆し、1991年12月31日に除隊している。

除隊後は生まれ故郷ペンドルトンの近くで警備員の仕事に就き、事件の数ヶ月前までカンザス州フォート・リレイ近くの町ジャンクションシティで働いていた。

マクベイは借りた4,000lbs(約2t)のトラックに陸軍時代の友人である共犯者、テリー・ニコルズの協力を得て、採石場から盗んだダイナマイトを伝爆薬とする、ニトロメタンと硝安から成るANFO爆薬を満載した車爆弾を作成する。

1995年4月19日、マクベイはオクラホマ州オクラホマシティにある、オクラホマシティ連邦政府合同庁舎ビル前に車を停め、車爆弾を仕掛けると安全な場所に移動した後、午前9時2分に伝爆薬のダイナマイトに装填された雷管の起爆スイッチを押した。









連邦ビルは前半分の80%が崩れ落ち、167名が死亡、850名以上の負傷者が病院に収容された。168人目の犠牲者レベッカ・アンダーソンは、ビル1階の職員用託児所に預けられていた際に事件に巻き込まれ、収容先の病院で死亡した。託児所はトラックから10mと離れていなかったため、アンダーソン以外の子供たちにも、多数の犠牲者が出た。
逮捕後マクベイは捜査官に、ビルの1階に託児所があるとは知らず、もし知っていれば、別の場所を狙ったと供述している。



事件後、専門家がオクラホマ州連邦政府合同庁舎ビルの構造を調べたところ、1階の玄関前の部分が柱で支えられ、その上に2階以上の階が載る形になっていたことから元々衝撃に弱く、その柱が折られると、上の階が崩壊するような構造になっていたことが明らかになった。事件後マクベイは捜査官からの尋問に対し、その事を熟知した上で、正面玄関前に爆発物を搭載したトラックを停めたと供述した。

事件後すぐにFBIが動き、犯行に使われたトラックがジャンクションシティから借り出されたことを突き止め、レンタカー会社の社員に借主の似顔絵製作に協力を要請したところ社員は快諾。トラック貸し出し時に作成した依頼書にはクリング (Kling) の名前が記載されていた。マクベイの似顔絵はすぐさまテレビに公開され、ドリームランドホテルに泊まっていたリー・マクガウンという男に良く似ているという情報が提供され、クリング、リー・マクガウン共にマクベイが使った偽名であった。 



ビル爆破後マクベイは、テレビに自分の似顔絵が流されていることなど露知らずにオクラホマ州ペリー近くのノーブル郡ハイウェイを車で走っていたが、オクラホマ州パウニーでハイウェイパトロールのチャールズ・J・ハンガーに呼び止められた。ハンガーはマクベイの車には有効なナンバープレートが付けられていないことに気付いた。マクベイは有効なナンバープレートをつけずに公道を走ったこと、そして弾が装填された重火器を許可証なしに持ち歩いていたことで逮捕された。3日後、刑務所内でマクベイは国を挙げての犯人捜査の網に引っ掛かった。

動機についてマクベイは、これはブランチ・ダビディアン(ウェイコ事件、1993年4月19日)とRuby Ridge に対して政府がしたことに対する復讐だと述べる。


裁判でマクベイの弁護団は、連邦政府合同庁舎ビルの爆破は政府によるウェイコ事件に対する抗議のためだと主張し、ウェイコ事件において政府が国民に対して大きな嘘をついたと公言した。

CNNの調査では国民の実に80%以上が死刑を希望した。 



1995年8月10日、マクベイは11の連邦法違反と8の第一級殺人罪により起訴され、同年10月20日連邦裁判所は死刑判決を下した。なお、共犯者には終身刑、さらにもう一人の男には計画を知っていながら通報しなかったとして懲役12年が確定した。

収監中のマクベイを長期に渡り取材し、「アメリカン・テロリスト」を著したジャーナリストのダン・ハーベックによると、マクベイはコロラド州・フローレンスにあるアメリカで唯一特殊警備が敷かれているADXフローレンス刑務所に収監されていた期間中、共犯者のニコルズと共に、ユナボマーとして知られるセオドア・カジンスキーや、世界貿易センター爆破事件を引き起こしたラムジ・ユセフと交友関係を持ち、"Bombers Row"と呼ばれる一団を形成していたという。マクベイはユセフとは政治的な議論を、カジンスキーとは自然やサバイバルについて語り合う事を好んだ。カジンスキーの前では元軍人として禁欲主義的な面を見せていたが、後にこのグループに加わったストリートギャングのラテンキングスの創設者、ルイス・フェリペ (殺人犯)とは、女性の話で盛り上がっていたという。



死刑執行はマクベイ自身とその弁護団による死刑執行の中止要請により遅れたが、最終的には2001年6月11日にインディアナ州テレホート連邦刑務所で薬物による刑が執行された。遺族の数が800名を超えたため全員を死刑執行に立ち会わせることが不可能であり、立ち合いをする遺族は抽選で選んだ。他の遺族には暗号化された信号によりテレビ中継された。
執行前、カトリックとして育っていたマクベイは、教戒師である神父からの赦しの秘跡のあと、病者の塗油と最後の聖体拝領を受けて、刑に臨んだ。

事件後合同庁舎ビル跡地には慰霊のための公園が作られ、そこにはこの事件で働いたレスキュー隊員や一般市民で救助に助力した人々の名前が石碑に刻まれた。

1996年『Oklahoma City Bombing』
ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門
オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件において、消防士に抱かれる1歳の犠牲者の写真。 

消防士に抱かれる子供は既に亡くなっている。
だがこの消防士は硬い手袋を外し自らの手でその小さな犠牲者を優しく抱き上げている。
心遣いといえばそれまでだが人の命の尊さ示した写真といえるのであろう。

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