不適切な修理が招いた大惨事 | hiroチャンのブログ

不適切な修理が招いた大惨事


【日本航空115便しりもち事故】 

Japan Airlines Flight 115

日付:1978年6月2日
概要:操縦士によるパイロットエラー
現場:日本・大阪府豊中市 大阪国際空港
乗客数:379
乗員数:15
負傷者数:3
死者数:0
生存者数:394(全員)
機種:ボーイング747-SR
運用者:日本航空(JAL)
機体記号:JA8119
出発地:東京国際空港
目的地:大阪国際空港

日本航空115便しりもち事故は、1978年(昭和53年)6月2日、東京(羽田)発大阪(伊丹)行日本航空115便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、大阪府豊中市蛍池西町の伊丹空港に着陸する際、機体尾部を滑走路面に接触させた(いわゆるしりもち着陸、以下「不良着陸」という)事故である。日本航空115便接触事故とも。

死者はいなかったが、不良着陸後機体がバウンドしたことで、3名の負傷者を出した。この事故における修理ミスは、後の1985年(昭和60年)8月12日に発生した、単独機で世界最悪の航空事故死者数を記録した「日本航空123便墜落事故」の原因となっていたことが判明している。
すなわち、この不良着陸により機体尾部の圧力隔壁が破損。製造元のボーイングに修理を依頼したが、その修理に欠陥があり、修理箇所に金属疲労が発生。金属疲労を起こした修理箇所が、与圧によって破壊され、垂直尾翼と補助電源装置の脱落に至ったものである。

事故機は、この事故を含め計3回の事故を起こしている。
1982年8月19日、羽田空港発千歳空港行きが、着陸の際に視界不良とパイロットの判断ミスにより滑走路の右に逸脱。第4エンジンが地上に接触、着陸復航(着陸をやり直すこと)した。視界不良の中、機長が副操縦士に操縦を行わせたのは、当時の日本航空の社内規定違反だった。
1985年8月12日、羽田空港発伊丹空港行き123便が、離陸12分後、今回の事故後の欠陥修理により、金属疲労が原因で垂直尾翼が破壊され、油圧系統がすべて損傷。制御不能になり、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称:御巣鷹の尾根)に墜落し、乗員乗客524名中520名が死亡、4名が重傷を負った(日本航空123便墜落事故)。

JALは、この不良着陸で損傷した圧力隔壁など機体尾部の修理を、ボーイングに依頼したが、同社のエンジニアによる圧力隔壁の修理に欠陥があり、損傷した圧力隔壁の交換部分との繋ぎ目に挟む部材が、途中で2枚にカットされていたため、本来2列必要なリベットが1列分しか利かない状態になっていた。また、その後のJALの検査では、欠陥修理部分が他の部材に覆われて見えなくなっていたため、欠陥修理は発見できなかった。これらの要因によって、1985年8月12日のJAL123便として運用中に生じた大惨事を防げなかったのである。


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