Nepalese royal massacre | hiroチャンのブログ

Nepalese royal massacre


【ネパール王族殺害事件】 

Nepalese royal massacre
2001年6月1日にネパールの首都カトマンズ、ナラヤンヒティ王宮で発生した事件。ディペンドラ王太子(事件直後、危篤状態のまま名目上は国王に即位し、その3日後に死亡)が父・ビレンドラ国王ら多数の王族を殺害したとされる事件である。
ただし、後述の事件に関する不自然さ、矛盾などからディペンドラが真犯人かどうかは疑問視されている。
また、事件後に即位したビレンドラの弟ギャネンドラの動向などから、彼が行ったクーデターとする説もある。だが、いずれの説も決定的な証拠がなく、その真相は現在に至るまで不明なままである。

ビレンドラ国王の末弟・ディレンドラ王子(この事件で銃撃され、3日後に死亡)の娘婿で、現場に居た国軍のシャヒ大佐の証言を元として、6月14日夜に政府の調査委員会が国王に提出・発表した。
かねてより、ディペンドラ王太子は結婚(希望)相手であったデブヤニ・ラナについて父である国王や母・アイシュワリヤ王妃らに反対されていた。6月1日に開かれた王族の晩餐会でこの問題が話し合われ、結婚に反対する国王と王妃は、王太子の王位継承権を剥奪するとまで発言。部屋に戻った王太子は泥酔状態で再び会場に現れると銃を乱射、自身も直後に銃で自殺を図った。この事件により、ビレンドラ国王夫妻、第二王子ニーラージャン、王女シュルティ、王の姉シャンティとシャラダ、シャラダの夫、王弟ディレンドラ、王のいとこジャヤンティーの9人が射殺された。

この事件はあまりにも突発的な上、公式発表および政府のその後の対応においていくつかの不可解な点があるとされる。
王族が全員集合していたのにビレンドラの弟・ギャネンドラだけが欠席していたこと。
事件発生当時、ギャネンドラは地方視察の途中で、ポカラの別荘に滞在していた。
出席していた王族の中でもギャネンドラの家族が全員生き残ったこと。
息子のパラス王子は無傷、妻のコマル妃も足を負傷したのみ。
周囲を警護していた国軍が物音に気づかなかったという点。
ディペンドラの不自然な自殺の仕方。
銃による自殺とされるが、弾丸が後部から入っており実行しようとするとかなり無理な体勢をとらなければならない。また、銃弾は右利きだったディペンドラの左側頭部から右側頭部にかけて貫通していた。
有力紙『デシャンタル』でもディペンドラを検死した医師らの証言をもとに、右利きのディペンドラの左側頭部から右側頭部にかけて銃弾が貫通しており自殺説に疑問が残るとしている。

ディペンドラは事件時に自分では立てないほどの泥酔状態であったとされる。だが、遺体の検視をした医師の証言ではアルコールが検出されなかったことが述べられている。現場ではディペンドラが使用したライフル銃の薬包47包、軽機関銃の薬包29包が見つかっているが、泥酔状態の彼が2種類の銃器を操作して、自身の父、母、妹、弟といった直系親族を識別して撃つことが出来たのか疑問が生じる。
さらには、現場では王太子の使用したとされるライフル銃など4種類の銃器が発見されたことから、複数犯が殺害にあたったのではないかとの疑問も生じる。
死亡した王族の葬儀が性急かつ非公開で行われた点。

通常、国家元首や王族が死亡すると外交的にも国内的にも大々的な式典がおこなわれるのが通例だが、本事件後はそういった儀礼が一切なく、また国民にも非公開のうちに事件後数日で行われた。

事件の真相については、「親印派の王弟ギャネンドラがアメリカやインドの後押しを受けて、親中派のビレンドラ国王・ディペンドラ王太子らを抹殺した宮廷クーデター」との説がある。
ネパールはマヘンドラ国王の治世から専制君主制で、また地方では封建的な制度が残っており、毛沢東派勢力(マオイスト)派の共産軍が農村部で王政の転覆と共産革命を目指して内戦(ネパール内戦)を起こしていた。そのような背景のなか、ビレンドラ国王がこれまでの専制君主制から立憲君主制の議会民主主義への緩やかな移行を宣言し、1990年には憲法改正が行なわれ、選挙選出による議会制度も導入されていた。
だが国王の君主大権が非常に強く残っており、国軍は議会や内閣ではなく国王に直属していた。
事件の不自然さに加え、ギャネンドラの家族が全員無事だった事と、彼がビレンドラ国王の民主化に最後まで強硬に反対を唱え、民主化後は政争の激化などマイナス面を批判し続けていたことが、この陰謀説を有力めいたものにしている。また、2001年になって与党ネパール会議派は反政府ゲリラであるマオイストに対して国軍の投入を考えていたが、現実主義者であるビレンドラは内戦の激化を恐れ、野党ネパール統一共産党とともに慎重な姿勢を見せていた。だが、ギャネンドラは反政府勢力に対して強権的であり、この事件は彼の主導でわずか2週間で収拾が図られて会議派もそれを追認しているが、背景にはそのような要因もあったとされる。
ネパール共産党毛沢東派の最高幹部バーブラーム・バッタライは有力紙『カンティプル』で、<新たな"王宮大虐殺事件"を認めるわけにはいかない>との題で論評を出し、この事件の真相に疑問を持つ国民の声を代弁した。王宮大虐殺事件とは、かつてラナ家のジャンガ・バハドゥル・ラナが王宮で主要な重臣を抹殺し、王をも凌ぐ権力を手に入れて一族による宰相位の世襲を実現化した事件であり、バッタライはこの事件と同様に今回の事件もギャネンドラが王権を奪取するために行ったクーデターであると示唆した。
カゲンドラ・サングラウラもまた、<第二の王宮大虐殺事件―政府の秘密主義に国民は霧に迷った鳥>との題で『カンティプル』に論評を出し、政府に対して真相解明を求めている。また、サングラウラはこの事件に無傷で生き残ったギャネンドラの息子パラスへ疑いの目を向けている。
司法解剖が行われなかったと言う点もあわせ、様々な推測や噂が流れているため、真相の究明は困難である。ただ謀殺の疑惑を覆す証拠もなく、謀殺であったのかなかったのかその真相は五里霧中に隠れているとし、王宮内の長い権力闘争の歴史をたどれば今回の事件は決して特異な例ではなく、特に驚くことでもないのかもしれない。

ビレンドラ国王が民主的な国王として国民に慕われていたなかで、国王夫妻や王太子、他の王族が死亡しただけでなく、その弟ギャネンドラによるクーデターではないのかとの陰謀説も飛び交い、王室そのものの威信が大いに失墜した。
事件当日、ビレンドラが即死していたため、陸軍病院に搬送されていたディペンドラが意識不明のまま王位を継承し、ギャネンドラが摂政となった。6月4日未明、ディペンドラが死亡し、その日のうちにギャネンドラの王位継承が国家評議会によって認められた。ネパール王国は初代プリトビ・ナラヤン・シャハの創始以来、王位はずっと一貫して父から子へと継承されてきたが、傍系からのギャネンドラの継承は王国の政体に変質を生じさせた。
数少ない生存者であるギャネンドラは王位についたものの、いつまでたっても政党間でいがみ合い、らちのあかない議会政治に失望し、また毛沢東派勢力の制圧が進まないことを理由に、同年11月26日に非常事態宣言を発令して議会を停止し、内閣を側近でかためるなど専制的な政策をとった。
だが、只でさえ不人気で人望の無かったギャネンドラは結局、この事で国内外からの強い反発を招き、マオイストによるネパール内戦を激化させたばかりか、2006年4月の大規模な民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)への引き金を引いてしまった。また、彼のビレンドラが行ってきた民主化に対する反動政策から、「事件の犯人はディペンドラではなく、居合わせなかったギャネンドラがパラスに行わせたに違いない」、とネパールの民衆は信じるようになった。
民主化運動の結果、同年5月18日に国王の政治的特権はすべて剥奪され、ギャネンドラは元首ですらなくなった。さらに2008年5月28日、制憲議会で共和制が議決、王制は廃止されギャネンドラは退位することになり、ネパール王国(ゴルカ朝)はその長い歴史に終止符を打った。
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